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[[山科言経]]の日記「[[言経卿記]]」[[文禄]]3年([[1594年]])8月24日の条に、[[石川五右衛門]]について、「正午天晴、盗人スリ十人また一人者釜にて煮らる」とあるから、盗人とスリとは区別されていたという。[[慶長]]2年([[1597年]])3月の記事に「一、辻切すり盗賊之儀に付、諸奉公人侍は五人侍下人は十人組に連判を続、右悪逆不可仕旨請定可申事」とあることもそれを証するという。当時のスリは無頼の徒は道行くひとにすりよって悪事をなし、携帯品をかすめ取るので、スリと呼ばれ、下緒ヌキと並び称され、[[貞享]]・[[元禄]]頃、巾着切りの名前になって巧妙化した。
 
元禄・[[宝永]]頃に名人坊主小兵衛が現われたが、これは[[同心]]目付役加賀山権兵衛の寵愛を受けた。このころからスリと同心の因縁が生じたという。当時の手口は袂さがし、腰銭はずし、巾着切りが主で、敲きの上門前払いに処罰されたが、巾着切りの横行の流行にかんがみ、[[延享]]4年([[1747年]])2月、御定書に「一、巾着切、一、腰錢袂錢を抜取候者、右何れも可為入墨之刑事。儋(但)入墨之者惡事不相止召捕候はば死罪」と達せられ、突き当たりの手口で荒稼ぎする者を入れ墨、重敲すべきを見合わせて死罪にする判例が生じた。その手口はますます巧妙化し、荒稼ぎ、山越し、達磨外し、から、[[天保]]頃から、違(ちがい。すれ違いざまにおこなう)、飛(かっさらい)、どす(おどしとり)へと変わり、白昼の追いはぎも現われ、スリは並抜きをして、同類と共同で稼ぐものもあったので、遂に天保の大検挙が行われ、万吉、虎、勇九郎、遠州屋のような有名なスリの入牢があった。しかしその後もスリの跳梁跋扈はやまず、天保の大検挙で入牢した親分たちが出牢するにおよんでますますさかんになり、[[慶応]]元年([[1865年]])、浅草年の市には勇九郎の流れをくむ秀奴の手合いが手当たり次第にすりとった紙入れは炭俵1杯分あって、石を付けて大川に放り込んだという。{{要出典範囲|当時スリは髷を元結い1本で結ぶのが掟で、天保頃は[[江戸]]に黒元結連という組があって、元結いを黒にして、一目でその所属がわかるようにしていたという。|date=2020年6月}}また、必ず集団で行動し、仲間のスリがしくじった場合は見ず知らずの町人を装った仲間が袋叩きにし、番屋に突き出す振りをして奪還した。組に所属しない流しのスリは十指全てをへし折られる凄惨な制裁を受けた。
 
[[明治]]以前はスリは町人全盛の大坂に多く、技量の点でも上方がスリの本場であったが、[[明治維新]]となり、[[東京]]に人口が集中し、スリの恐れた武士の帯刀が禁じられ、富豪が増え、上方から東京に所がえするものがおおくなり、明治20年(1887年)頃、秀奴の子分の地蔵の栄のまた子分の巾着屋の豊が東京市中のスリを統合して組織化し、京阪のスリは非常に多く東京に集まった。当時、スリには「箱師」(電車内専門)、「ボタハタキ」(縁日や劇場など人混み内専門)、「違い」(路上ですれ違いざまにする)の3種があった<ref name=m41>[{{NDLDC|1920436/268}} スリ絶えず、大名生活の大親分、東京市中に1500徘徊 ]新聞集成明治編年史. 第十三卷、(林泉社、1936-1940)</ref>。警察が彼らを情報屋として利用することもあったため、明治末期まで取り締まりは比較的緩かった<ref name=m41/>。