「マリ・キュリー」の版間の差分

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(書誌情報)
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[[File:Marie Sklodowska 16 years old.jpg|thumb|175px|マリア・スクウォドフスカ。16歳(1883年)<ref>Helena Skłodowska-Szalay: Ze wspomnień... Nasza Księgarnia, Warsaw, Poland, 1958</ref>]]
[[File:Krakowskie Przedmiescie, Warsaw.JPG|thumb|upright|農工博物館の実験室。1890年から1891年にかけて、マリが初めて科学実験をおこなった場所。]]
その後ワルシャワに戻って[[チューター]]などを務めていたが<ref name=Eve73>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.73-88、使命]]</ref>、ピャセツカという女性教師の紹介で非合法の「{{仮リンク|さまよえる大学|en|Flying University}}(ワルシャワ移動大学<ref name=NRPB />)」で学ぶ機会を得た<ref name=Eve73 />。その頃、姉ブロスニワバが[[パリ]]で[[薬学]]修学のために貯金をしていたため、マリは申し出て働き、姉を援助することを決めた<ref>Marie Curie,『Autobiography』</ref><ref name=Eve73 />。1885年からマリは住み込みの[[家庭教師]]を始めた。最初は[[クラクフ]]の法律家一家で、その後{{仮リンク|チェハヌフ|en|Ciechanów}}で農業を営む父方の親戚筋に当るゾラフスキ家で[[ガヴァネス]]となった<ref name=Eve73 />。ここで勉学に打ち込んだ彼女に、[[ワルシャワ大学]]で数学を学んでいた一家の長男{{仮リンク|カジュミェシュ・ゾラフスキ|en|Kazimierz Żorawski}}が惹かれ、ふたりは恋仲となった<ref name=Gold25>[[#ゴールドスミス2005|ゴールドスミス (2005)、pp.25-36、第二章 どんなときも胸を張って]]</ref>。しかし、カジュミェシュが結婚の希望を両親に告げると、社会的地位の違いを理由に猛反対された<ref name=Eve103>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.103-120、忍耐の日々]]</ref>。彼女は失意のまま契約の2年間を終えると<ref name=Gold25 /><ref>{{cite book| title= Marie Curie: A Life |author=スーザン・クイン[[:en:Susan Quinn|(en)]] |publisher= Simon and Schuster |date=1995年|location=ニューヨーク|isbn=0-671-67542-7}}</ref>チェハヌフを去り、[[バルト海]]沿岸にある[[ソポト]]の町に住むフックス家でさらに1年間家庭教師の仕事を続けた<ref name=Eve121>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.121-135、脱出]]</ref>。
 
1890年3月、数か月前に医師カジュミェシュ・ドウズキと婚約した姉ブロスニワバがパリで一緒に住むよう誘う手紙がマリに届いた<ref name=Eve121 />。だが彼女は断る。父や姉の元にいると決めたこと、ワルシャワの家庭教師の仕事が順調で、ワルシャワ移動大学での勉学に楽しさを感じていること、留学するには蓄えが充分ではないこと、そしてカジュミェシュ・ゾラフスキを忘れられずにいたことが理由であった<ref name=Eve121 />。彼女は家庭教師をする傍ら、[[ワルシャワ歴史地区|オールドタウン]]近郊の{{仮リンク|クラクフ郊外通り|en|Krakowskie Przedmieście}} 66にある{{仮リンク|農工博物館|en|Museum of Industry and Agriculture}}の実験室で科学研究の技能習得に努めた。この実験室は[[サンクトペテルブルク]]でロシアの著名な化学者[[ドミトリ・メンデレーエフ]]の助手を務めたこともあるいとこのユゼフ・ボグスキーが管理しており、また[[ロベルト・ブンゼン]]に学んだN. Milicerも彼女を指導した<ref name=NRPB />。