「クィントゥス・ファビウス・ピクトル」の版間の差分

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'''クィントゥス・ファビウス・ピクトル'''('''{{lang-la|Quintus Fabius Pictor}}''', [[紀元前254年]]頃 - ?)は、[[古代ローマ]]最初の[[歴史家]]、[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員。名門[[ファビウス氏族]]の一員で、家族名ピクトル(pictor)は[[ラテン語]]で「[[画家]]」を意味する。
 
[[共和政ローマ]]の元老院議員として[[紀元前225年]]の[[ガリア人]]との戦いや[[カルタゴ]]との[[第二次ポエニ戦争]]を指導した。[[カンナエの戦い]]でのローマの大敗の後、[[デルポイ]]へ神託を伺う使節して派遣された。
 
ピクトルはローマ最初の歴史家とされるが、著述は[[ラテン語]]ではなく[[ギリシア語]]で行っている。その著作は引用などで断片が伝わるが、大半は散逸してしまっている。ピクトルの著作は[[ラティウム]]への[[アイネイアース]]の到着から自身の経験した第二次ポエニ戦争までを扱ったとされ、執筆年代は第二次ポエニ戦争後とされているが、戦争中に書かれたとの主張もある。