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'''アマチュアリズム'''({{lang-en|amateurism}})とは、「スポーツをするものは、アマチュアでなくてはならない」という主張、あるいは「スボーツはアマチュア精神に従ってするのがよい」という考え方の主張である<ref>{{Cite journal|和書|author=永井康宏|date=1965-02|title=スポーツにおけるアマチュアリズムについて|url=http://ir.lib.shimane-u.ac.jp/2643|journal=島根大学論集教育科学|issue=14|pages=41-54|publisher=島根大学|ref=harv}}</ref>。
{{出典の明記|date=2012年10月}}
 
== 起源歴史 ==
'''アマチュアリズム'''({{lang-en|amateurism}})とは、[[近代オリンピック|オリンピック]]運動の創始者である[[ピエール・ド・クーベルタン]]が、その運動の理念として提唱した[[思想]]で、「オリンピックの出場者は、[[スポーツ]]による金銭的な報酬を受けるべきではない」とする考え方。
内海和雄はアマチュアリズムの条件の構成要素を以下の3つに分類した<ref>{{Cite|和書|author=内海和雄|title=『アマチュアリズム論』|date=2017-03|publisher=創文企画|ref=harv}}</ref>。
 
* 身分的要素:「職工、機械工、機関工、労働者の排除」、「陸海軍 士官、文官、紳士、大学生、パブリックスクールの生徒のみの参加」、「プロとの試合禁止」、「プロのアマ化禁止」、「体育教師、プロコーチの排除」
長らくオリンピックやスポーツ界において支配的な思想であったが、[[1970年代]]以降はスポーツそのもの、またそのスポーツを行う選手に必然的に生まれる特異性(大きくは実力であり、それ以外にも選手自身とは関係無いアイドル性、スター性など)を金銭に変換する行為を排除しようとした元来の層と、スポーツ技術や方法論を金銭に代替し結果的にスポーツそのものの技術や意識の向上を計ろうとしたスポーツ界の現実とは適合しなくなり、現在は、オリンピック憲章からは「アマチュア(リズム)」という単語は削除されている。世界的なスポーツ界の流れとしても事実上存在しないに等しい。
* 経済的要素:「生計のためのスポーツをする者は排除」、「賞金を目当てとする者は排除」
* 倫理的要素:「紳士或いはその品位ある者」、「スポーツそれ自体を享受するもの」、「フェアプレイに徹するもの」
 
ギリシア・ローマ時代に行われたオリンピックは、肉体の栄光を讃えると同時に、その人格に価値を求めたアマチュアリズムの理想であったが、後にオリンピックで活躍した者に賞金や身分を与えるようになり、アマチュアリズムの精神は失われた<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=富田善太郎|date=1960-03|title=スポーツにおけるアマチュアリズムの推移と展望|url=http://hdl.handle.net/10228/3307|journal=九州工業大学研究報告. 人文・社会科学|volume=8|pages=57-66|publisher=九州工業大学|ref=harv}}</ref>。やがて、[[エウリピデス]]がスポーツの職業化を酷評するなど、職業競技者に対する批評としてアマチュアリズムが主張された<ref name=":0" />。
== 起源 ==
スポーツを行う資格を限定する規定は[[19世紀]]の前半に、[[イギリス]]で始まったとされる。最初のものといわれるのは[[1839年]]の「[[ヘンリー・ロイヤル・レガッタ|ヘンリー・レガッタ]]組織委員会」の規定で、その中では出場者を大学・[[パブリックスクール]]・陸海軍[[士官]]・アマチュアクラブに限定していた。これと同じような規定が他の競技でも作られたが、その中には肉体労働者を排除するものが少なくなかった。これらは、当時スポーツ界の中心だったブルジョアジーによる労働者階級の排除を目的とするものである。彼らが自らを[[アマチュア]]と呼んだことから、アマチュアやアマチュアリズムは身分・職業の差別に発するものであるという批判を後世受けることとなった。しかし、スポーツの大衆化が進むに連れて職業差別的な内容は19世紀後半には多くの規定から削除された。
 
[[イギリス]]では、[[1512年]]に初めて競馬に商品が出され、[[1551年]]に[[ジョッキークラブ]]が組織されると、これを「プロフェッショナル」として批判反発する動きが生まれた<ref name=":0" />。[[ボクシング]]界では、[[1795年]]にジャックソンが専業ボクサーを撃破する一方、賞金を受け取ることを潔しとしなかったため、「ジェントルマン」と呼称された<ref name=":0" />。[[1818年]]ごろにレアンダー・クラブが設立され、競漕会が盛んになったが、プロフェッショナルの出場に反対する動きが[[1840年]]ごろから起こり、「職業家ではなく、ジェントルマンであること」「プロフェッショナルとの接触禁止」「勝利そのものを目的とする」などが主張された<ref name=":0" />。[[1878年]]には、「アマチュア漕手あるいはスカラーは、陸軍士官・文官・高等の職業に従事する者・大学もしくは高等学校の学生生徒・その他労働者または職業競技者を含まない既存の競艇クラブに限る」と、アマチュアが定義された<ref name=":0" />。さらに、[[ヘンリー・ロイヤル・レガッタ|ヘンリー・レガッタ]](1879年)、陸上競技(1880年)、アメリカンフットボール(1885年)、ラグビー(1886年)といった各種競技のプロとアマの定義が明文化された<ref name=":0" />。
クーベルタンはこうしたアマチュアの思想に準拠する一方、[[古代オリンピック]]においては当初勝者は月桂の冠以外の栄誉を受けなかったことに範を取り、オリンピックの参加者はスポーツによる金銭的な報酬を受けるべきではないとした。
[[IOC]]は[[1901年]]にアマチュア規定を統一した。それによるとアマチュアでないものとして 
# 金のために競技するもの 
# プロ選手とともに競技するもの 
# 体育教師・トレーナー 
# マネキン的競技者
があげられた。
このうち、3の体育教師・トレーナーについては各国からの不満が相次ぎ、1905年には条件付きでアマチュア認定されることとなった。
 
1925年、[[国際オリンピック委員会|IOC]]はオリンピックに参加する競技者の資格を「いかなるスポーツであってもプロフェッショナルはいけない」と定めたが、後に削除している(後述)<ref name=":0" />。
== ジム・ソープ事件 ==
 
初期のオリンピックにおけるアマチュアリズムに関わる事件としては、アメリカの陸上競技選手だった[[ジム・ソープ]]のケースが挙げられる。[[1912年]]の[[1912年ストックホルムオリンピック|ストックホルムオリンピック]]の[[十種競技]]と[[五種競技]]の金メダリストとなったソープは、野球の[[マイナーリーグ]]でのプレー歴があった(詳細はソープの項目を参照)ことが大会終了後明るみに出たため、翌1913年に金メダル剥奪・記録抹消という厳しい処分を受けた<ref name=sportsnavi>{{cite web|url=http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/special/athens/data/history/1912.html|title=五輪の歴史 History of the Olympic Games|work=スポーツナビ|accessdate=2013.9.21}}</ref>。69年後の[[1982年]]にIOCはソープの復権を決定し、金メダリストとして認定された<ref name=sportsnavi/>。ソープの死去から29年後のことである
現代のスポーツは、アマチュア・スポーツとして仕事の合問の片手問のトレーニングでは及びもつかないほどのレペルに発展しており、トップ・レペルのスポーツは生活全てを傾注しなければならないほどのものであって、真の意味で「スポーツを本業としない」アマチュア・スポーツの理念を遵守していては勝負にならない<ref name=":1">{{Cite journal|和書|author=日高哲朗|date=1983-03|title=崩壊するアマチュアリズム|url=https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/107027/S09138137-5-P006.pdf|journal=千葉体育学研究|volume=5|pages=6-13|publisher=千葉大学|ref=harv}}</ref>。そのため、アマチュア・スボーツの最大の祭典であるオリンピックに出場するようなトップ・レペルの競技選手に対して、もはやアマチュアリズムを押しつけることはできないと指摘される<ref name=":1" />。
 
日本では、[[武田千代三郎]]が[[1922年]]に[[体育協会]]機関誌『アスレチックス』で発表した論稿「アマチュアリズム」が知られる。武田が1900年代に確立した「競技道」概念と1920年代に確立した「アマチュアリズム」概念は、一貫してスポーツと金銭との結びつきを善としないという、経済的要素と倫理的要素が重なり合ったものが内包されていただけでなく、教育的要素が内包されていた<ref>{{Cite journal|和書|author=根本想,友添秀則,長島和幸,岡部祐介|date=2016-07|title=武田千代三郎の「アマチュアリズム」概念に関する一考察:「競技道」概念との関係に着目して|url=https://kguopac.kanto-gakuin.ac.jp/webopac/NI30001258|journal=自然・人間・社会|issue=61|pages=17-21|publisher=関東学院大学経済学部教養学会|ref=harv}}</ref>。しかし、1900年代の「競技道」概念では、勝利至上主義を理性によって「克服」することに教育的価値を見出していたのに対し、 1920年代の「アマチュアリズム」概念においては、勝利至上主義が「排除」の対象へと変化していった可能性が示唆されている<ref>{{Cite journal|和書|author=根本想,友添秀則,長島和幸,岡部祐介|date=2016-07|title=武田千代三郎の「アマチュアリズム」概念に関する一考察:「競技道」概念との関係に着目して|url=https://kguopac.kanto-gakuin.ac.jp/webopac/NI30001258|journal=自然・人間・社会|issue=61|pages=17-21|publisher=関東学院大学経済学部教養学会|ref=harv}}</ref>。日本体育協会は1957年12月4日にアマチュア規定を定めた<ref name=":0" />。
 
== オリンピックにおけるアマチュアリズム ==
== '''ジム・ソープ事件 =='''
 
初期のオリンピックにおけるアマチュアリズムに関わる事件としては、アメリカの陸上競技選手だった[[ジム・ソープ]]のケースが挙げられる。[[1912年]]の[[1912年ストックホルムオリンピック|ストックホルムオリンピック]]の[[十種競技]]と[[五種競技]]の金メダリストとなったソープは、野球の[[マイナーリーグ]]でのプレー歴があった(詳細はソープの項目を参照)ことが大会終了後明るみに出たため、翌1913年に金メダル剥奪・記録抹消という厳しい処分を受けた<ref name="sportsnavi">{{cite web|url=http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/special/athens/data/history/1912.html|title=五輪の歴史 History of the Olympic Games|work=スポーツナビ|accessdate=2013.9.21}}</ref>。69年後の[[1982年]]にIOCはソープの復権を決定し、金メダリストとして認定された<ref name="sportsnavi" />。ソープの死去から29年後のことである
 
== '''休業補償問題 =='''
 
== 休業補償問題 ==
労働者階級の選手が大会に出場する場合、その間の賃金を補償すべきかどうかという点が、早い時期から問題になっていた。この件に関し、[[国際サッカー連盟]]はそうした補償を行った選手もアマチュアであると認定したが、IOCはこれを認めず、それが原因で[[1932年]]の[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]]においてはサッカーが実施されないという事態を招いた。IOCは長い議論の末に[[1962年]]の憲章改正で、オリンピックの参加選手に対する休業補償を認めるに至ったが、これは同時にプロ容認への第一歩でもあった。
 
== アベリー・ブランデージと'''アマチュアリズム規定変容 ==削除'''
第5代IOC会長(1952-72年)を務めた[[アベリー・ブランデージ]]は、原理主義的なアマチュアリズムを唱え、「ミスター・アマチュア(リズム)」と呼ばれた。しかし、皮肉なことに彼の在任中にスポーツを取り巻く環境は大きく変わり、アマチュアリズムとの乖離が進行した。
 
彼が第5代IOC会長(1952-72年)を務めた[[アベリー・ブランデージ]]は、原理主義的なアマチュアリズムを唱え、「ミスター・アマチュア(リズム)」と呼ばれた。しかし、彼の在任中就任スポーツを取り巻く環境は大きく変わり、アマチュアリズムとの乖離が進行した。特開催された[[1952年ヘルシンキオリンピック|ヘルシンキオリンピック]]から[[ソビエト連邦|ソ連]]がオリンピック参加する。このおいて、ソ連をはじめとする東欧の社会主義諸国は、それらの国においては興行としてスポーツを行う者がいないため、スポーツ選手はすべてアマチュアであると主張していた。しかし、実際には国家によってる出場者の選抜されたメンバーを専門的トレーニングするシステムが作られを施しており、彼らはもっぱらトレーニングのみを行っていた。事実上プロに等しいこうした選手は「ステート・アマ」と呼ばれるようになる。また、上記の休業補償を認めたことから、西側の選手も日常的にスポーツしか行っていない者が多くを占めるようになり、[[1971年]]のIOC総会では[[1972年ミュンヘンオリンピック|ミュンヘンオリンピック]]の組織委員長から、すべての国の選手が「[[ステート・アマ]]」化しているという質問状が提出されるに至った。
 
しかし一方、ブランデージはなおもアマチュアリズムの維持にこだわった。り、アルペンスキーを中心に、用具メーカーからの供与とその実質的な宣伝を選手が行っていた冬季大会について彼は批判的であり、冬季オリンピックは将来廃止されるべきであると主張していた。そして、IOCは[[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]の際に、オーストリアのアルペンスキー選手である[[カール・シュランツ]]に対して、「名前や写真を広告に使わせた」という理由でアマチュア資格違反とみなし、開会式の前に選手村から追放する処分を行った。しかし、これは多くの目には見せしめの処分と映り、結果的にこの年で退任したブランデージの最後のあだ花となった。
 
その後、IOC会長が6代目の[[キラニン男爵]][[マイケル・モリス (第3代キラニン男爵)|マイケル・モリス]]に交代して早々の[[1974年]]のIOC総会で、ついにオリンピック憲章からアマチュア規定が削除されるに至った。
 
== 出典 ==