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== 経歴 ==
『[[日本書紀]]』巻第十九、巻第二十一、巻第二十二および、『聖徳太子伝暦』に記されよると、[[欽明天皇]]31年([[570年]])、[[越国]]に漂着し、7月に[[近江国]]までやってき経歴[[高句麗]]の使節まとめ迎えにあたり<ref>『日本書紀』欽明天皇31年7月1日条</ref>、[[吉士赤鳩]](きし の あかは)とともに以下[[難波津]]にあった船を佐々波山(今よう[[逢坂山]])引き上げ、使節を近江の北の山(琵琶湖北岸)に迎えいれてい<ref>『日本書紀』欽明天皇31年7月是月条</ref>
 
[[欽明崇峻天皇]]314年([[570591年]])8月[[越国]]天皇は群臣漂着任那を復興すべ、7という詔を出している<ref>『日本書紀』崇峻天皇4年81日条</ref>。これより、同年11月、巨勢猿は、[[近江国紀男麻呂]]までやってきた[[高句麗大伴咋|大伴囓]]の使節を迎える・[[葛城烏那羅|葛城烏奈良]]らととも大将軍に任じられ、2万の軍とともに[[筑紫国]]に派遣された<ref>『日本書紀』欽明崇峻天皇31471114日条</ref>。ただし、[[吉士赤鳩朝鮮半島]](きし の あかと)とともに渡海しておらず、[[難波津推古天皇]]にあった船を佐々波山3年今の[[逢坂山595年]])7月筑紫を引き上げ、使節を近江の北の山(琵琶湖北岸)に迎える、という役目を果たしている<ref>『日本書紀』欽明推古天皇313年7月条</ref>。
 
このほか、[[谷川士清]]の『日本書紀通証』に引用された一書によると、若い頃に船辰爾の業を受け、のちに百済博士王柳貴に従った、とある<ref>岩波文庫『日本書紀伊』(三)p344 - p345注10</ref>。
 
[[崇峻天皇]]4年([[591年]])8月、天皇は群臣に任那を復興すべしという詔を出し<ref>『日本書紀』崇峻天皇4年8月1日条</ref>、これにより、同年11月、巨勢猿は、[[紀男麻呂]]・[[大伴咋|大伴囓]]・[[葛城烏那羅|葛城烏奈良]]らとともに大将軍に任じられ、2万あまりの軍とともに[[筑紫国]]に派遣された<ref>『日本書紀』崇峻天皇4年11月4日条</ref>。ただし、[[朝鮮半島]]へは渡海しておらず、[[推古天皇]]3年([[595年]])7月に筑紫を引き上げたという<ref>『日本書紀』推古天皇3年7月条</ref>。
== 脚注 ==
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