「中国本土」の版間の差分

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中国本土の広がりを捉える方法のひとつは、[[漢民族]]が建ててきた古代[[王朝]]の領域を検討することである。中国文明は、中核地域である[[中原]]に発祥し、周囲の民族を征服して同化し、逆に征服されて影響を受けながら、数千年にわたって外へと拡大してきた。歴代王朝の一部、特に[[漢]]と[[唐]]は、拡張主義的であり、[[中央アジア]]へと勢力を伸ばしたが、[[晋 (王朝)|晋]]や[[宋 (王朝)|宋]]のように[[華北平原]]を[[北東アジア]]や中央アジアの対抗する[[遊牧]]勢力に明け渡してしまうこともあった。
 
[[漢民族]]が建てた最後の王朝である[[明]]は、中国を支配した最後から2番目の王朝でもある。明は[[布政使司]](ふせいしし)13、皇帝直属の直隷2と、合わせて15の行政単位を設けて統治を行った。[[満州民族|満洲族]]の建てた[[清]]が明を征服した後も、明の支配下にあった地域ではこの制度が維持されたが、それ以外の清の支配地域、つまり[[満州|満洲]]、[[モンゴル高原|蒙古]]、[[新疆ウイグル自治区|新疆]]、[[チベット自治区|チベット]]には、この制度を広げなかった。満洲は満洲民族の故地として特別に支配され、モンゴルやチベットでは土着の領主([[土司]])らを通じた間接支配を行った。その後、若干の制度再編があり、[[清]]は中国本土を十八省(一十八行省)の体制で統治していった。西洋諸国の初期の文献が「中国本土(チャイナ・プロパー)」として言及していたのは、この十八省の範囲であった。
 
明代の体制と、清の十八省では、細部では異なる部分もある。例えば、[[満州|満洲]]の一部([[遼東]]、[[遼西]])は明の領土に組み込まれて[[山東省]]の一部となっていたが、明を征服する前にまずこの地域を征服した満洲族は、この地を中国本土から切り離し、清による中国統一後は副都・奉天府が管轄する、内地とは異なる行政制度の下に置くようになった。一方、清が新たに獲得した領土であった[[台湾]]は、中国本土の一部である[[福建省]]に編入された。チベット東部<ref>いわゆる[[大チベット#地理区分用語としての「大チベット」|地理区分用語としての「大チベット」]]であるが、ここでは誤解を避けるため「チベット東部」と表現する。</ref>の一部となる[[カム (チベット)|カム]]東部は[[四川省]]に編入され、現在の[[ミャンマー]]北部の一部は[[雲南省]]に編入された。