「浄瑠璃」の版間の差分

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==義太夫節の完成==
[[貞享]]元年(1684年)ごろ、[[竹本義太夫]](後に筑後掾)が大坂道頓堀に竹本座を開設して義太夫節を樹ててよりのちは、浄瑠璃に新たな時代が訪れる。名作者[[近松門左衛門]]と結ぶことによって、戯曲の文学的な成熟と詞章の洗練が行われ、義太夫節と人形浄瑠璃は充分に芸術としての鑑賞に耐えうるものとなった。この新しい様式は上方の人士から熱狂的な支持を受け、義太夫節はそれ以前の古浄瑠璃を圧倒することになる。たとえば古浄瑠璃時代にはその人の名を付して何某節と呼ばれていたように、浄瑠璃の流派は多分に個性的な名人芸の代名詞として行われ、決してそれがひとつの様式として後代に受け継がれる性格のものではなかったが、義太夫節にいたってはそのあまりに完璧な内容のために、義太夫節という流儀名が竹本義太夫死後もひとつの様式の名前として用いられつづけることになったのは、その象徴的な事例であろう。義太夫節の特徴は「歌う」要素を極端に排して、「語り」における叙事性と重厚さを極限まで追求したところにある。太夫と三味線によって作りあげられる間の緊迫、言葉や音づかいに対する意識、一曲のドラマツルギーを「語り」によって立体的に描きあげる構成力、そのいずれをとっても義太夫こそは浄瑠璃におけるひとつの完成形であるというにふさわしい。
==江戸浄瑠璃豊後節発展登場==
一方、このころ竹本義太夫と同門の都太夫一中は京で一中節を創始し、その弟子宮古路豊後掾がさらに[[豊後節]]へと改めて、[[享保]]19年(1734年)これを江戸へもたらした。豊後節の特徴は義太夫節の豪壮な性格とは対照的に、一中節の上品な性格を生かしたやわらかで艶っぽい語り口にあり、江戸において歌舞伎の劇付随音楽として用いられたためにまたたくまに大流行を見た。その人気は、[[心中]]ものの芝居にさかんに用いられたために江戸で心中が横行し、風俗紊乱を理由に豊後節の禁止が布告され、豊後掾が江戸を去らねばならなくなったほどであった(ただし、この豊後節禁止は河東節をはじめとする江戸浄瑠璃側の嫌がらせという説もある)。
 
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以上の豊後節、およびそこから派生した豊後節系浄瑠璃の特徴は、第一に歌舞伎芝居、門付けの違いはあるにしろ操り人形から離れ、浄瑠璃の音楽性が独立したこと、第二に程度の差はあるが「語り」の性格が「歌」の要素によってよわめられ、やわらかさ、艶麗さの方向に発達していったことにある。なお、付記しておくと、以上のほか宮古路豊後掾の流れを汲む浄瑠璃には[[宮薗節]](豊後掾門弟宮古路薗八創始)がある。
 
 
 
== 清元節の発達 ==
 
さて、このような豊後節系浄瑠璃の展開は江戸中期以降にいたって新たな局面を見せる。常磐津文字太夫の門弟、富本豊前掾が一派を立てて[[富本節]]を称し、さらに二代目富本豊前太夫の門下から清元延寿太夫による清元節が生れる([[文化]]11年、1814年)。これらはいずれも常磐津節の艶麗な芸風をさらにつよめた流儀で、むろん歌舞伎の劇付随音楽としても用いられたが、それだけにとどまらず、素人の習事、座敷音曲としての性格をも備えるようになってゆく。通常豊後節から見て、子、孫、曾孫になる常磐津、富本、清元を豊後三流と称し、それぞれに微妙な性格の違いがある。常磐津は艶麗さの反面、古い江戸浄瑠璃の名残を引いて豪壮な部分があり、歯切れのいい語り口をも兼備えている。それに対して、富本と長唄の混交から生れた清元には豪壮さがまったくなく、高音を多用した繊細で情緒的な浄瑠璃になっており、「語り」よりも「歌」の要素がきわめてつよい。常磐津には素朴で豪放な部分があり、清元にはそれを洗練させすぎたゆえの美しさともろさがある。そして富本は両者の中間的な形態として当初は絶大な人気を集めたが、現在ではほぼ滅亡寸前であるといっていい。艶麗さと古雅な味いを共存させ、寂びた風情には捨てがたいものがあるが、惜しむらくは常磐津と清元のあいだにあって独自性が発揮できなかったために、歴史の流れに打ち克つことができなかったのである。
 
==現状==
現在、浄瑠璃音楽として残っているものは、[[義太夫節]](丸本歌舞伎専用の義太夫を特に[[チョボ]]、[[竹本]]と呼ぶことがある)、[[常磐津節]]、[[清元節]]、それに[[河東節]]、[[一中節]]、[[宮薗節]](これに上方地唄の系統を引く[[荻江節]]を加えて[[古曲]]と称する)、[[新内節]]、[[富本節]]の八種である。このほか半太夫節と外記節が河東節に、大薩摩節が長唄に、豊後節から分かれた[[繁太夫節]]が[[地唄]]に、それぞれ吸収されて特殊な一部分として残存している。