「八洲秀章」の版間の差分

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[[1943年]](昭和18年)日本映画学校(大日本映画協会付属)入学 卒業後「出陣」「寒駅」「肉弾挺身隊」に出演、その後同校音楽講師として指導、並行して「八洲秀章とその楽団『黎明』」結成、戦後は楽団を率い、歌手志摩光一としても活動、また俳優として[[1951年]](昭和26年)「ドレミハ先生」<ref>{{jmdb name|0325760}}</ref><ref>佃血秋(本名・佃順)による最後の脚本監督作品、倉庫の火事で焼失したと思われていたが、発見されて[[2010年]]再上映された。</ref>に主演した。その後は兄の諫めも有り音楽一筋で行く事を決意する<ref name="SA"></ref>。
 
「さくら貝の歌」、「あざみの歌」、「毬藻の唄」を作曲したことで知られる。「あざみの歌」は、自身の歌唱で[[1949年]](昭和24年)8月8日から[[ラジオ歌謡]]で1週間放送し、その後、[[のど自慢 (曖昧さ回避)|のど自慢]]等で歌われるようになり、[[1951年]](昭和26年)、伊藤久男の歌唱でレコード化された<ref name="SA"></ref>。