「飯坂温泉」の版間の差分
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== 歴史 ==
飯坂温泉は奥羽地方有数の古湯であり、古くは'''「鯖湖の湯」'''と呼ばれた。伝説によると、[[日本武尊]]の東征にまで遡るといわれ、この地で湯治したといういわれが残る。また、[[西行]]法師もこの湯を訪れ、ここで「あかずして 別れし人のすむ里は 左波子(さばこ)の見ゆる 山の彼方か」と読み、そこから「鯖湖の湯」という名が定着した。源泉は至る所に点在し、農民、庶民などに重宝されていた。▼
▲また、[[西行]]法師もこの湯を訪れ、ここで「あかずして 別れし人のすむ里は 左波子(さばこ)の見ゆる 山の彼方か」と読み、そこから「鯖湖の湯」という名が定着した。源泉は至る所に点在し、農民、庶民などに重宝されていた。
[[1689年]]([[元禄]]2年)5月2日、[[江戸]]から下って来た[[松尾芭蕉]]と弟子の[[河合曾良]]が泊まり、翌日に発った<ref>河合曾良『曾良旅日記』元禄2年5月2日条、3日条。岩波文庫『芭蕉おくのほそ道』98-99頁。</ref>。雨に降られた芭蕉らは、温泉に入って貧家に宿をとった。『[[おくのほそ道]]』によれば、土間に莚を敷き、囲炉裏のそばで寝たが、雨漏りがあり、蚤と蚊に悩まされ、芭蕉の持病が再発するなど散々であった<ref>松尾芭蕉『おくのほそ道』元禄2年5月朔日条。岩波文庫『芭蕉おくのほそ道』27頁。日付については同書同頁の注15を参照。</ref>。[[山中温泉]]の好印象とは対照的である。この温泉を、曾良は飯坂、芭蕉は飯塚と日記には違う字で書いた。飯塚の例は他の文書にもあるという<ref>岩波文庫『芭蕉おくのほそ道』27頁注16。</ref>
尤も、この頃には既に温泉地としての体裁が整ってきたものの内湯はあまり見られなく、思い思いに宿を選んで、点在する[[外湯]]で湯治を施すようなスタイルであったといわれる。尚、飯坂という地名は、1300年頃、伊達家の分家(伊達政信)が飯坂姓を名乗り、一帯を開墾したことに因む。これがいつしか飯坂村の温泉、すなわち飯坂温泉と呼ばれるようになった。伊達政信は、1300年頃、古舘に「湯山城」を築き、飯坂氏を称したとされる。そのため、摺上川べりから同城に通じる坂道は「飯坂」と呼ばれた。1300年以前の地名は、石那坂と呼ばれていたと考えられている。
飯坂温泉が、世に遍く知れ渡るようになったのは、[[江戸時代]]中期の[[享保]]年間の頃からで、各街道が整備されたことにより、周辺の庶民に加え、多くの旅人も訪れるようになった。
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戦前には、[[ボーリング]]による源泉の乱開発によって枯渇の危機を迎えたことがあったが、その後の規制によって源泉保護が行われている。
== 共同浴場 ==
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* [[高湯温泉]] - 福島市内、[[吾妻山|吾妻山連峰]]の中腹に位置する温泉街。
* [[土湯温泉]] - 福島市内、[[安達太良山|安達太良山連峰]]の中腹に位置する温泉街。
== 外部リンク ==
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