「ホレィシォ・ネルソン・ジャクソン」の版間の差分

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[[牧師]]の子として[[1872年]]に生まれる。[[1893年]]、[[バーモント大学]]医学部を卒業後、[[バーモント州]]の[[ブラットルボロー]]で開業、その後[[バーリントン (バーモント州)]]に移る。[[1899年]]にバーサ・リチャードソン・ウェルスと結婚。バーサの父は20パーセントグレインアルコールの特効薬、[[ペインズ・セレリー・コンパウンド]]の創業者であり、バーモントでも指折りの富豪だった。
 
ジャクソンは軽度の[[結核]]にかかり[[1900年]]には医業を中断していたが、[[ヨーロッパ]]に新婚旅行に行き、[[チャンプレイン湖]]畔の[[プロビデンス島]]の別荘を購入し、[[炭鉱]]に投資し、競争馬まで購入していた。それもこれもすべて妻バーサの資金のおかげだった。そして、自動車で国を横断するという当時はありえない旅に資金をだしたのもバーサだったのである。
 
== 賭け、旅の準備 ==
ジャクソンは31歳。自動車に心奪われていた。当時一般にはまだ『単なる流行で金持ちの道楽』と思われていた自動車だったが、ジャクソンはそうは思っていなかった。1903年[[5月18日]]、ジャクソンは[[サンフランシスコ大学]]のクラブにゲストとして招かれていた。そこで彼は自動車が国を横断できるかどうか50ドル(現在の約1000ドル、約十数万円)で賭けをする。ジャクソンはバーサと滞在中に運転の教習を受けていたところだった。彼には十分な自動車の運転の経験はなかった。たどるべき[[地図]]などもちろんなかった。バーリントンの家へは数日後に帰る予定だったのだが、ジャクソンはその賭けにのった。
 
ジャクソンは、同行のメカニック兼ドライバーを探した。まだ若い22歳のセワール・クロッカー(Sewall K. Crocker:1881年-1913年4月22日)を説得し旅の供とする。クロッカーは[[ワシントン州]][[タコマ]]の生まれで、[[競輪選手]]としてお金を得ていたが、[[カリフォルニア]]に移りジャクソンと出会ったときはガソリンエンジン工場で技術者として働いていた。クロッカーは『[[ウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニー]]』の車を使うことを提案。ジャクソンは、かなり使い込まれたウィントンの中古を購入し、ホームタウンの名『バーモント』と名付ける。『バーモント』は20馬力2気筒エンジンを載せた2人乗りツーリングカーだった。最高時速30マイル(48キロ)。そして、オープンカーである。屋根はない。風防もない。もちろんサイドウインドウも。
 
妻に別れを告げ、サンフランシスコのパレス[[ホテル]]を発ったのが5月23日。[[コート]]、あて布で補強した服一式、[[寝袋]][[毛布]]、炊事道具、水袋、[[]][[シャベル]][[望遠鏡]]、工具類、スペアパーツ、予備の[[ガソリン]]缶、オイル缶、[[カメラ]][[ライフル銃]][[ショットガン]][[ピストル]]、そして150フィート(約46m)の麻縄(ヘンプロープ)が付いた滑車装置(ブロック&タックル)を携帯した。この滑車装置は、溝にはまった時、車を引っ張り出すのにかなり頻繁に使ったという。
 
ジャクソンは、[[ウィントン社]]の創業者[[アレグザンダー・ウィントン]]が[[サウスウエスタン砂漠]]を横切るのに失敗した話を知り、もっと北側のルートを取るようにした。それは[[サクラメントバレー]]から[[オレゴントレイル]]へ抜けるルートで、これなら[[ロッキー山脈]]の高所も通らなくてすむ。
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== 旅立ち ==
[[画像:HoratioJacksonNelson.jpeg|thumb|350px|left|1903年ジャクソンのアメリカ大陸横断(クロスカントリードライブ)中の写真]]
車はまずサンフランシスコから[[オークランド]]まで[[フェリー]]で運び、そこから東に向かった。ところが15[[マイル]]走ったところで[[タイヤ]]が[[パンク]]してしまった。ジャクソンとクロッカーは所持しているたった一つのスペアタイヤ初日で使うことになった。サンフランシスコで探しに探してやっとみつけた唯一この車に合うサイズのスペアだったのにだ。
 
旅の2日目の夜、サイドの[[ランタン]]を交換する。最初の夜の走行で暗すぎることがわかったからだ。二人は次の到着地サクラメントでは自転車に乗っていたサイクリストたちに出会いサクラメントを案内をしてもらう。しかも彼らはロードマップをくれた。新しいタイヤは手に入らなかったが、インナーチューブを何本か買うことができた。
 
サクラメントを出て北に向かったが、車がうるさく、炊事用具が落ちたのに気が付かなかった。しかも、道を聞いた女に違う道を108マイル走らされてしまう。家族に自動車を見せたかったからだという。
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カリフォルニア州[[アルチューラス]]にたどり着き、タイヤを待つ。[[ワイルド・ウエスト・ショー]]を見るのと引き換えにそこの住民を車に乗せてやった。三日間待ったが、結局タイヤはとどかず、旅を続けることにした。
 
6月6日、車が故障し、近くの牧場までカウボーイに引っ張ってもらった。クロッカーが修理をしたが、燃料漏れのためガソリンを全て失ってしまっていた。ジャクソンは自転車を借り、25マイル先の[[オレゴン州]]バーンズまで調達にいった。燃料を携えて戻ってくると、今度は満タンにするためバーンズに向かった。
 
6月9日、オレゴン州バーレの近くでオイルが切れた。ジャクソンは歩いて、今通ってきた一番近くの町へ戻ったが、バーレの方がすぐ近くにあったことを知るのはその街に戻ったときだった。翌日、オレゴン州[[オンタリオ]]に到着。タイヤが待っていた。
 
[[画像:Photo bud portrait.jpg|thumb|350px|right|バド(Bud)]]
 
[[アイダホ州]]カルドウェル近くで、ジャクソンとクロッカーはアメリカン・[[ブルドッグ]]を手に入れ、バド(Bud)と名づける。当時の新聞はジャクソンがどうやってバドを入手したのかについて様々に書いているが、盗んだというものまであった。妻の手紙によれば、ある男が15ドル(今日320ドル)で売るといったという。埃っぽいアルカリ性の道なので、バドの目がやられた。ジャクソンはバドにゴーグルをかけてやることにした。(ウィントンには屋根も風防もなかった) このとき、バドは悪い水を飲み病気になったが、元気をとりもどした。
 
この時点で、2人と1匹は有名人になっていた。新聞は彼らの着くところいたるところで写真をとり、インタビューをおこなった。アイダホ、マウンテンホームでは、オレゴントレイルの東側はよくないと住民が教えてくれたので、ジャクソンとクロッカーは、当初のコースをソートゥースマウンテンの南麓沿いに変更。クロッカーは電信でウィントン社に部品をもっとほしいと依頼。
 
6月16日、アイダホのどこかで、旅の資金を仕舞いこんでいたジャクソンのコートが落ちてしまい探したが見つからなかった。次の停車地点でジャクソンは妻に電信で[[ワイオミング州]]シャイアンまで金を送るように伝えた。しかし車のホイルベアリングがやられてしまい、クロッカーは農家に頼み込んで芝刈り機からホイールベアリングをもらいなんとかまにあわせた。
 
7月12日、一行は、ついに、[[ネブラスカ州]][[オマハ]]にたどり着いた。ここからは、すこしは舗装された道を通ることができる。旅は楽になるぞ。
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'''Horatio's Drive: America's First Road Trip''' (2003)
 
2003年、[[ドキュメンタリー映画]]製作者、ケン・バーンズがホレィシォの番組を制作。2003年10月3日、PBSで放映された。この番組はデイトン・ダンカン(Dayton Duncan)の同名タイトルの本(ISBN 037541536X)を基にしたもの。この番組にはグッド・オールド・ソングもちりばめられている。この番組はDVDとして現在米国で発売されている。
 
この作成の過程でケンはジャクソンの孫娘からジャクソンが旅の途中に書いた手紙を見せてもらっている。手紙からは、ジャクソンの人生に対する考え方と、思い立ったらやらないと気がすまない性格がよくわかったという。
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== トリビア ==
* [[ホレーショ・ネルソン]]といえば、[[アメリカ独立戦争]][[ナポレオン戦争]][[トラファルガー海戦]]で活躍したイギリス海軍提督のネルソン提督の名前として有名。
* ジャクソンは、大陸横断の前に受けていた自分と妻の自動車教習では購入した2台の車を使っていた。この2台は旅に出る前にすでにバーモントに向けて送られていた。
* このときの運転の教官はクロッカーではないかといわれている。
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== 参考 ==
英語版Wikipedia [[:en:Horatio Nelson Jackson|Horatio Nelson Jackson]]
[[Category:バーモント州の人物|ほれいしおねるそんしやくそん]]
 
{{生没年|ほれいしおねるそんしやくそん|1872年|1955年}}
[[en:Horatio_Nelson_Jackson]]