「橋本忍」の版間の差分

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| 画像ファイル = Shinobu Hashimoto.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像コメント = <small>キネマ旬報社『キネマ旬報』2月上旬号(1967)(1967)より</small>
| 本名 =
| 別名義 =
| 出生地 = {{JPN}} [[兵庫県]][[神崎郡]][[鶴居村 (兵庫県)|鶴居村]]<br />(現:[[神崎郡]][[市川町]]鶴居)
| 死没地 = {{JPN}} [[東京都]][[世田谷区]]
| 国籍 = 日本
| 身長 =
| 血液型 =
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| 活動内容 =
| 配偶者 = あり
| 著名な家族 = 息子:橋本信吾(長男)<br />娘:橋本綾(長女)
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力--> '''映画'''<br />『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』 / 『[[生きる (映画)|生きる]]』 / 『[[七人の侍]]』<br />『[[真昼の暗黒 (映画)|真昼の暗黒]]』 / 『[[張込み#映画|張込み]]』 / 『[[ゼロの焦点#映画|ゼロの焦点]]』<br />『[[切腹 (映画)|切腹]]』 / 『[[霧の旗#映画|霧の旗]]』 / 『[[白い巨塔 (映画)|白い巨塔]]』<br />『[[上意討ち 拝領妻始末]]』 / 『[[日本のいちばん長い日#1967年版|日本のいちばん長い日]]』 / 『[[日本沈没#1973年の映画|日本沈没]]』<br />『[[砂の器 (映画)|砂の器]]』 / 『[[八甲田山 (映画)|八甲田山]]』 / 『[[八つ墓村 (1977年の映画)|八つ墓村]]』<hr />'''テレビドラマ'''<br />『[[私は貝になりたい]]』
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力-->
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
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| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 = '''脚本賞'''<br />[[1950年]]『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』<br />[[1956年]]『[[真昼の暗黒 (映画)|真昼の暗黒]]』<br />[[1958年]]『[[張込み#映画|張込み]]』、『[[鰯雲 (映画)|鰯雲]]』<br />[[1962年]]『[[切腹 (映画)|切腹]]』<br />[[1966年]]『[[白い巨塔 (映画)|白い巨塔]]』
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 = '''[[キネマ旬報賞]]'''<br />'''脚本賞'''<br />[[1958年]]『[[隠し砦の三悪人]]』、『[[夜の鼓]]』、『[[張込み#映画|張込み]]』<br />[[1960年]]『[[黒い画集 あるサラリーマンの証言]]』、『[[悪い奴ほどよく眠る]]』<br />[[1966年]]『[[白い巨塔 (映画)|白い巨塔]]』<br />[[1967年]]『[[上意討ち 拝領妻始末]]』、『[[日本のいちばん長い日#1967年版|日本のいちばん長い日]]』<br />[[1974年]]『[[砂の器 (映画)|砂の器]]』<hr />'''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''脚本賞'''<br />[[1952年]]『[[生きる (映画)|生きる]]』<br />[[1956年]][[真昼の暗黒 (映画)|真昼の暗黒]]』<br />[[1958年]]『[[張込み#映画|張込み]]』、『[[鰯雲 (映画)|鰯雲]]』、『[[夜の鼓]]』<br />[[1960年]]『[[証言 (松本清張)|黒い画集 あるサラリーマンの証言]]』、『[[いろはにほへと (テレビドラマ)#映画|いろはにほへと]]』<br />[[1966年]]『[[白い巨塔 (映画)|白い巨塔]]』<br />[[1974年]]『[[砂の器 (映画)|砂の器]]』<hr />[[勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]([[1991年]])
 
| 備考 =
}}
'''橋本 忍'''(はしもと しのぶ、[[1918年]][[4月18日]] - [[2018年]][[7月19日]]<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33191960Q8A720C1CC1000/ 橋本忍さんが死去 脚本家、黒沢監督の「羅生門」など 日本経済新聞 2018/7/20 2:00]</ref>)は、[[日本]]の[[脚本家]]、[[映画監督]]。男性。[[兵庫県]][[神崎郡]][[鶴居村 (兵庫県)|鶴居村]](現・[[神崎郡]][[市川町]]鶴居)に生まれる。
 
脚本家の橋本信吾、橋本綾は実子。
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家業は小料理屋で、芝居好きの父親から影響を受ける。[[阪南大学高等学校|大鉄]]教習所卒業後、[[鉄道省|国鉄]]に勤務<REF>日外アソシエーツ現代人物情報</REF>。
 
[[1938年]]に応召、鳥取歩兵四十連隊に入隊(階級は[[一等兵]])するも粟粒性[[結核]]に罹り、永久服役免除され療養生活に入る。[[1939年]]に[[岡山県]]の療養所にて<ref>[[読売新聞]] 2017年3月24日 夕刊9面 「レジェンド」 脚本家 橋本忍 ひたすら書く 忍耐の黒子(武田裕芸)</ref><ref>著書『複眼の映像』</ref>隣にいた兵士の読んでいた『日本映画』という映画の本を読み、[[シナリオ]]に興味を持ち、隣の兵士に「日本で一番偉い脚本家は誰か」と訊ねたところ「[[伊丹万作]]」と返ってきたため、脚本家を志す。
 
[[1942年]]、療養所を退所して郷里に帰った後に執筆したシナリオ『山の兵隊』を伊丹本人に送ったところ、思いがけず返信があり、以降、[[姫路市]]の軍需会社に勤務しながら、伊丹の「唯一の脚本家としての弟子」としてシナリオの指導を受ける。[[1946年]]の伊丹死去の、翌年([[1947年]])の一周忌の折りに、伊丹夫人より[[佐伯清]]監督を紹介される<ref>伊丹への師事の経位については『複眼の映像』より</ref>。
 
[[1949年]]、サラリーマン生活のかたわら、[[芥川龍之介]]の短編小説『[[藪の中]]』を脚色した作品を書く。社用で上京した際に佐伯に渡していた脚本が、[[黒澤明]]の手に渡り映画化を打診される。黒澤から長編化するよう依頼され、芥川の短編小説『[[羅生門 (小説)|羅生門]]』も加えて加筆。最終的に黒澤が修正して完成させた脚本を基に、翌[[1950年]]に黒澤が演出した映画『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』が公開され、橋本忍は脚本家としてデビューした。同作品は[[ヴェネツィア国際映画祭]]グランプリを受賞するなど高い評価を受けた。[[1951年]]に退社して上京し専業脚本家となる<ref>『羅生門』執筆の経緯については『複眼の映像』より</ref>。
 
以後、黒澤組のシナリオ集団の一人として、[[小国英雄]]とともに『[[生きる (映画)|生きる]]』、『[[七人の侍]]』などの脚本を共同で執筆する。しかし、黒澤映画への参加は1960年の『[[悪い奴ほどよく眠る]]』で終わっており、あとはその10年後に『[[どですかでん]]』で1度だけ復帰する。その後、橋本は日本を代表する脚本家の一人として名声を高めることとなる。代表作に挙げられる『[[真昼の暗黒 (映画)|真昼の暗黒]]』、『[[張込み#映画|張込み]]』、『[[ゼロの焦点#映画|ゼロの焦点]]』、『[[切腹 (映画)|切腹]]』、『[[霧の旗#映画|霧の旗]]』、『上意討ち』、『[[白い巨塔 (映画)|白い巨塔]]』、『[[上意討ち 拝領妻始末]]』、『[[日本のいちばん長い日#1967年版|日本のいちばん長い日]]』、『[[日本沈没#1973年の映画|日本沈没]]』などの大作の脚本を次々と手がけ、論理的で確固とした構成力が高い評価を得る。
 
[[1958年]]、KRT(現・[[TBSテレビ|TBS]])の[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]参加ドラマ『[[私は貝になりたい]]』の脚本を手がける。上官の命令で、米兵[[捕虜]]を刺殺しそこなった二等兵が、戦犯として死刑に処せられる悲劇を描いたこのドラマは大好評となり、[[芸術祭賞]]を受賞した。翌[[1959年]]自身が監督して映画化し、監督デビューも果たす。しかし、作品中に登場する遺書が[[加藤哲太郎]]による『狂える戦犯死刑囚』のそれと酷似していたことから、加藤に原案者としてのクレジットを入れるよう要求されるも、橋本は『[[週刊朝日]]』からの引用であると主張し拒否、その上「このまゝ沈黙して呉れるなら十万円を出します。それは私のポケットマネーであって原作料ではない」と突き放したとされる。その後も加藤に連絡なく再放送が行われたことから、加藤は[[告訴・告発|刑事告訴状]]を[[東京地方検察庁|東京地検]]に提出したが、起訴はされなかった<ref>現存する1958年版ドラマのVTRには、原作者として橋本と共に加藤の名もクレジットされている。なお1959年、橋本自身のメガホンにより映画化された際には、当初から加藤の名もクレジットされていた([[私は貝になりたい#裁判]]も参照)。</ref>。
 
[[1968年]]、『[[太平洋の地獄]]』執筆のため、[[米国]]の[[ロサンゼルス]]に長期滞在。東京へ帰った4日後に[[ソ連]]の[[モスクワ]]で開催された映画同盟とのシンポジウムに参加。

[[1973年]]、それまで配給会社主導で行われていた映画制作の新しい可能性に挑戦するため、「橋本プロダクション」を設立、[[松竹]]の[[野村芳太郎]]、[[東宝]]の[[森谷司郎]]、TBSの[[大山勝美]]などが参加し、映画界に新風を吹き込む。[[1974年]]に第1作として[[山田洋次]]との共同脚本で『[[砂の器 (映画)|砂の器]]』を製作、原作者の[[松本清張]]に原作を上回る出来と言わしめる傑作で、興行的にも大成功をおさめ、その年の映画賞を総なめにした。
 
続いて[[1977年]]に、[[森谷司郎]]監督、[[緒形拳]]主演で『[[八甲田山 (映画)|八甲田山]]』を発表し、当時の配給記録新記録を打ち立てる大ヒットとなった。わずか3ヵ月後に松竹で公開された『[[八つ墓村 (1977年の映画)|八つ墓村]]』(脚本担当)もこれに迫る数字をはじき出し、この年の橋本はまさに空前絶後の大ヒットメーカーぶりを示す。
『八つ墓村』は、この当時人気だった東宝╱[[角川映画|角川春樹事務所]]の[[石坂浩二の金田一耕助シリーズ|金田一耕助シリーズ]](監督:[[市川崑]]、主演:[[石坂浩二]])が綿密に構成された「合理的な謎解き」を前面に出していたのに対して、オカルティズム<!--への傾斜が顕著であり、{{要出典範囲|date=2013年4月|橋本の作家的特質を如実に示している}}-->色を強く出した作品となった。 以後、1980年代まで脚本執筆、映画制作と精力的に活動した。
以後、1980年代まで脚本執筆、映画制作と精力的に活動した。
 
しかし[[1982年]]、脚本だけでなく製作、原作、監督もこなした東宝創立50周年記念映画『[[幻の湖]]』が、わずか1週間で興行打ち切りという憂き目にあう。その後も2本の脚本を書いたが、体調不良もあり、以後は事実上引退した状態が続いた。しかし体調回復に伴い、[[2006年]]に黒澤明との関係を語った著書『複眼の映像 私と黒澤明』を発表した。そして、[[2008年]]に[[中居正広]]主演でリメイクされることになった劇場版『[[私は貝になりたい#2008年版|私は貝になりたい]]』で、自らの脚本をリライトした。[[2000年]]、故郷である兵庫県市川町に「橋本忍記念館」がオープンした。
 
[[2018年]]7月19日9時26分、[[肺炎]]のため[[東京都]][[世田谷区]]の自宅で死去<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL7L6T15L7LUCLV022.html?iref=comtop_8_01 脚本家の橋本忍さん死去 「七人の侍」黒澤8作品に参加] - 朝日新聞デジタル 2018年7月20日</ref>。{{没年齢|1918|4|18|2018|7|19}}。
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米国の[[映画芸術科学アカデミー]]は、[[2019年]]開催の[[第91回アカデミー賞]]において、逝去した映画人を悼む“{{La|''In Memoriam''}}”(''イン・メモリアム'')のコーナーで、橋本を追悼した<ref>{{Cite web|author=編集部・市川遥|date=2019-02-25|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0107051|title=アカデミー賞で高畑勲監督、橋本忍さん追悼|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ|accessdate=2019-03-10}}</ref><ref>{{Cite web|author=Ryo Uchida|date=2019-02-25|url=https://www.cinemacafe.net/article/2019/02/25/60445.html|title=【第91回アカデミー賞】注目すべき5つの瞬間、司会者不在は意外と好評!…映画人を追悼する“In Memoriam” 今年は高畑勲監督、脚本家の橋本忍さんら|website=[[イード (企業)#メディア事業|シネマカフェ]]|publisher=[[イード (企業)|株式会社イード]]|accessdate=2019-03-15}}</ref><ref name="movie">[[#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref>。
 
脚本の完成度の高さ、そのスタンスから同業者に最も尊敬されている脚本家のひとり一人であり、その影響は日本にとどまらず、世界中の製作者にも影響を与えている。 橋本の薫陶を受けた脚本家は[[国弘威雄]]、[[中島丈博]]、[[山田洋次]]、[[鈴木尚之]]と、ごく僅かである。
橋本の薫陶を受けた脚本家は[[国弘威雄]]、[[中島丈博]]、[[山田洋次]]、[[鈴木尚之]]と、ごく僅かである。
 
== 人物 ==
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== 受賞 ==
*[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]脚本賞(昭和25年度・31年度・33年度・37年度・41年度)
*[[毎日映画コンクール]]脚本賞(昭和27年度・31年度・33年度・35年度・41年度・49年度)
*[[キネマ旬報賞]]脚本賞(昭和33年度・35年度・41年度・42年度・49年度)
*[[芸術祭賞]](脚本)〔)(昭和33年
*1977年日本映画テレビプロデューサー協会賞(特別賞)
*1991年[[勲四等]][[旭日小綬章]]<ref>「長年の苦労報われて… 喜びの秋の叙勲受章者(都内関係、敬称略)」『読売新聞』1991年11月3日朝刊</ref>
*1991年[[NHK特別賞]]シナリオ功労賞
*1997年[[日本映画批評家大賞]]プラチナ大賞
*2007年:第31回山路ふみ子賞映画功労賞(第31回,平成19年度)
*2013年:[[全脚本家組合賞]]ジャン・ルノアール賞平成25年
 
== 映画 ==
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* [[花と竜#映画|花と竜 第1部 洞海湾の乱斗]](1954年[[3月3日]]公開、佐伯清監督、東映)
* 花と竜 第2部 愛憎流転(1954年[[3月24日]]公開、佐伯清監督、東映)
* [[勲章 (映画)|勲章]](1954年[[4月14日]]公開、[[渋谷実]]監督、[[松竹]])
* [[七人の侍]](1954年[[4月26日]]公開、黒澤明監督、東宝)
* [[次郎長三国志#映画|次郎長三国志 第九部 荒神山]](1954年[[7月14日]]公開、[[マキノ雅弘]]監督、東宝)
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* [[憎いもの]](1957年[[5月28日]]公開、[[丸山誠治]]監督、東宝)
* [[妻こそわが命]](1957年[[6月11日]]公開、[[佐伯幸三]]監督、大映) - 原案
* [[女殺油地獄#1957年版|女殺し油地獄]](1957年[[11月15日]]公開、[[堀川弘通]]監督、東宝)
* [[どたんば#映画版|どたんば]](1957年[[11月24日]]公開、[[内田吐夢]]監督、東映)
* [[張込み#映画|張込み]]([[1958年]]1月15日公開、野村芳太郎監督、松竹)
* [[夜の鼓]](1958年[[4月15日]]公開、今井正監督、松竹)
* [[奴が殺人者だ]](1958年[[7月29日]]公開、[[丸林久信]]監督、東宝)
* [[鰯雲 (映画)|鰯雲]](1958年[[9月2日]]公開、[[成瀬巳喜男]]監督、東宝)
* [[隠し砦の三悪人]](1958年[[12月28日]]公開、黒澤明監督、東宝)
* [[コタンの口笛]]([[1959年]][[3月29日]]公開、成瀬巳喜男監督、東宝)
* [[七つの弾丸]](1959年[[10月27日]]公開、[[村山新治]]監督、東映)
* [[空港の魔女]](1959年11月22日公開、佐伯清監督、東映)
* [[証言 (松本清張)|黒い画集 あるサラリーマンの証言]]([[1960年]][[3月13日]]公開、堀川弘通監督、東宝)
* [[ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐]](1960年4月26日公開、[[松林宗恵]]監督、東宝)
* [[いろはにほへと (テレビドラマ)#映画|いろはにほへと]](1960年[[5月20日]]公開、[[中村登]]監督、松竹)
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* [[切腹 (映画)|切腹]]([[1962年]][[9月16日]]公開、[[小林正樹]]監督、松竹)
* [[白と黒 (1963年の映画)|白と黒]]([[1963年]][[4月10日]]公開、堀川弘通監督、東宝)
* [[悪の紋章#1964年映画版|悪の紋章]]([[1964年]][[7月11日]]公開、堀川弘通監督、東宝) - 原作
* [[仇討 (1964年の映画)|仇討]](1964年[[11月1日]]公開、今井正監督、東映)
* [[暴行 (映画)|暴行]] - ''The Outrage''(1964年[[12月26日]]日本公開、[[マーティン・リット]]監督、[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]) - オリジナル脚本
* [[侍 (映画)|侍]]([[1965年]][[1月3日]]公開、[[岡本喜八]]監督、東宝)
* [[その口紅が憎い]](1965年[[5月16日]]公開、[[長谷和夫]]監督、松竹)
* [[霧の旗#映画|霧の旗]](1965年5月28日公開、[[山田洋次]]監督、松竹)
* [[香港の白い薔薇]](1965年[[8月25日]]公開、[[福田純]]監督、東宝)- 原案
* [[大菩薩峠 (1966年の映画)|大菩薩峠]]([[1966年]]2月25日公開、岡本喜八監督、東宝)
* [[白い巨塔 (映画)|白い巨塔]](1966年[[10月15日]]公開、[[山本薩夫]]監督、大映)
* [[上意討ち 拝領妻始末]]([[1967年]][[5月27日]]公開、小林正樹監督、東宝)
* [[日本のいちばん長い日#1967年版|日本のいちばん長い日]](1967年[[8月3日]]公開、岡本喜八監督、東宝)
* [[首 (映画)|首]]([[1968年]][[6月8日]]公開、[[森谷司郎]]監督、東宝)
* [[太平洋の地獄]] - ''Hell in the Pacific''(1968年[[12月21日]]公開、[[ジョン・ブアマン]]監督、松竹)※ノンクレジット
* [[風林火山 (映画)|風林火山]]([[1969年]][[3月1日]]公開、[[稲垣浩]]監督、東宝)
* [[人斬り (映画)|人斬り]](1969年[[8月9日]]公開、[[五社英雄]]監督、大映)
* [[影の車#映画|影の車]]([[1970年]][[6月6日]]公開、野村芳太郎監督、松竹)
* [[どですかでん]](1970年[[10月31日]]公開、黒澤明監督、東宝)
* [[暁の挑戦]]([[1971年]][[5月22日]]公開、[[舛田利雄]]監督、松竹)
163 ⟶ 162行目:
* [[人間革命#映画|人間革命]]([[1973年]][[9月8日]]公開、舛田利雄監督、東宝)
* [[現代任侠史]](1973年10月27日公開、[[石井輝男]]監督、東映)
* [[日本沈没#1973年の映画|日本沈没]](1973年[[12月29日]]公開、森谷司郎監督、東宝)
* [[砂の器#映画|砂の器]]([[1974年]][[10月19日]]公開、野村芳太郎監督、松竹)※製作も
* 続人間革命([[1976年]][[6月19日]]公開、舛田利雄監督、東宝)
172 ⟶ 171行目:
* [[旅路 村でいちばんの首吊りの木]](1986年11月1日公開、[[神山征二郎]]監督、東宝)※製作も
* [[隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS]]([[2008年]][[5月10日]]公開、[[樋口真嗣]]監督、東宝) - オリジナル脚本
* [[私は貝になりたい#2008年版|私は貝になりたい]](2008年11月22日公開、[[福澤克雄]]監督、東宝)
 
 村井淳志『脚本家・橋本忍の世界』(2005 集英社新書)の巻末に、共同脚本家名・シナリオ掲載誌・LD/VHS/DVD化の有無を含めた詳細な作品リストがある
・共同脚本家名
・シナリオ掲載誌
・LD/VHS/DVD化の有無
  を含めた詳細な作品リストがある
 
=== 監督作品 ===
* [[私は貝になりたい#1959年版|私は貝になりたい]](1959年)
* [[南の風と波]](1961年)
* [[幻の湖]](1982年)
194 ⟶ 189行目:
* [[いろはにほへと (テレビドラマ)|いろはにほへと]]([[1959年]][[11月20日]]放送、ラジオ東京テレビ)
* [[正塚の婆さん]]([[1963年]][[10月25日]]放送、TBSテレビ)
* [[悪の紋章#テレビドラマ|悪の紋章]]([[1965年]] - [[1966年]]、[[テレビ朝日]]) - 原作
* [[泣いてたまるか]] 23話「その一言がいえない」([[1966年]][[12月4日]]放送、TBSテレビ)<ref>監督は[[中川晴之助]]。 同シリーズ中唯一の脚本担当回で、[[渥美清]]がシリアスな役を演じた[[法廷ドラマ]]。</ref>
* 剣([[1967年]] - [[1968年]])
200 ⟶ 195行目:
* ナタを追え<ref>[http://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040115_00000 ドラマ ナタを追え - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>([[1970年]])
* [[非情のライセンス]] 第1シリーズ([[1973年]] - 1974年)
* [[ゼロの焦点#1983年版|ゼロの焦点]]([[1983年]])
* [[私は貝になりたい#1994年版|私は貝になりたい]]([[1994年]])
 
== 著書 ==