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エスペランティストとしての記述
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'''中目 覚'''(なかのめ あきら(または'''さとる''')、[[明治]]7年([[1874年]]) - [[昭和]]34年([[1959年]])3月27日<ref>『朝日新聞』([[朝日新聞東京本社|東京本社]]発行)1959年3月28日朝刊、11頁。</ref>)は、[[日本]]の[[地理学者]]、[[言語学者]]、[[教育]][[行政官]]、[[エスペランティスト]]。
 
== 経歴 ==
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[[1907年]]に広島高等師範学校に地理教育の課程を創設。また同年、[[王立地理学会|英国王立地理学会]]員[[エドワード・ガントレット]]とともに、初めて[[秋芳洞]]の学術調査を行った。その後、[[松山高等学校 (旧制)|旧制松山高校]]、[[京都帝国大学]]などで地理学を講じた。また、戦時中には華北日本語教育研究所長を務め大陸での[[日本語]]普及を行った。その後大阪外国語学校(後の[[大阪外国語大学]])の学校長を務め、地理学、言語学、[[小樽市]]手宮洞窟の古代文字の解読など様々な分野に足跡を残した。
 
== エスペランティストとして ==
[[1905年]]のブリュッセル滞在中に書店でエスペラントの書籍を見つけて独習<ref>La Revuo Orienta誌1936年6月号</ref>。広島高等師範学校時代に同僚の[[大野直江]]らと広島エスペラント倶楽部を設立<ref>「日本エスペラント運動史料」日本エスペラント運動50周年紀年行事委員会</ref>。
 
== 親族 ==
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[[Category:日本の地理学者]]
[[Category:日本の言語学者]]
[[Category:日本のエスペランティスト]]
[[Category:大阪外国語大学の教員]]
[[Category:京都大学の教員]]