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11月5日、朝8時に岩本は司令部の忠告を聞くことも無く、将校全員となる4名を乗せると自ら特攻機仕様の「九九式双発軽爆撃機」を操縦して、兵舎のあるリパから[[マニラ]]の第4航空軍司令部に向かった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=279}}</ref><ref>[[園田芳巳]]中尉が操縦していたという説もある。</ref><ref>{{Harvnb|生田惇|1979|p=81}}</ref>。岩本機は離陸後まもなく[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]から攻撃を受けた。[[ニコルス飛行場]]でその様子を見ていた海軍の[[津田忠康]]少尉は敵の激しい空襲のなかで爆撃機単機で飛行していた岩本機を訝しみ「今頃、飛んでくるなんて、おかしな双軽だな」などと心配して見守っていたが、F6Fヘルキャットの銃撃を受けた岩本機は大きく姿勢を崩して、黒煙を噴き上げながら[[モンテルンパ]]付近の畑のなかに墜落した<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=411}}</ref>。墜落地付近は[[ゲリラ]]の勢力が強いため、第4航空軍は武装兵を入れた救援隊を編成し救助に向かったが、岩本、[[園田芳巳]]中尉、[[安藤浩]]中尉、[[川島孝]]中尉の操縦士士官は全員即死、唯一、通信士官の[[中川勝巳]][[少尉]]が重体で収容されたがのちに死亡した<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=413}}</ref>。このとき、救援隊の1人であった第4航空軍衛生班の大元肇上等兵によれば、岩本らの遺体は現地の住民に物色されて、遺品は殆ど奪われていたという<ref>{{Harvnb|高橋秀治|2014|p=143}}</ref>。
 
岩本らが指示を破って航空機で戦死したという報告を聞いた第4航空軍司令部は全員落胆し、高級参謀の[[松前未曽雄]]大佐は「あれほど自動車でこいと指示しておいたのに」とがっかりとした表情で話していたという<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=417}}</ref>。「万朶隊」は岩本以下の操縦士将校全員が出撃前に戦死してしまうという不運に見舞われた<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=279}}</ref>。岩本が第4航空軍司令部の佐藤らの指示を無視して、危険な空路でマニラに行こうとした真意は不明であるが、作家の[[高木俊朗]]は、マニラと岩本らがいたリパの間の距離は約90㎞もあって、ゲリラを警戒しながらの陸路では3時間以上の時間がかかってしまうため、それを嫌ったという理由に加えて、特攻隊長を命ぜられて胸中には憤激と不満が渦巻いていた中で、富永からマニラに呼びつけられといった富永の非常識さにも立腹し、無駄死にを覚悟して、当てこすりにわざわざ危険な空路を選択したと推測しているが<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|pp=419-422}}</ref>、実際のマニラとリパの間の距離は72㎞程度であり、参謀の佐藤によれば自動車でも1時間程度で来れる距離であり、陸路で来なかったのは、車の手配がうまくいかなかったのか、もしくは遠慮したのではと回想し<ref>{{Harvnb|昭和史の天皇13|1971|p=87}}</ref>、同じく参謀の[[美濃部浩次]]少佐によれば、陸路では2時間程度かかるが、岩本らが出発した5日の朝の時点では富永がマニラにいないことはわかっていたので、急いでくる必要はなく、陸路で夕方ぐらいまでに到着すればよかったと回想している<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=418}}</ref>。
 
「万朶隊」の不運は続き、同日のアメリカ軍艦載機による空襲で[[石渡俊行]]軍曹と通信員の浜崎曹長2名の隊員が負傷、鵜沢邦夫軍曹もフィリピン到着時に不時着して入院していたが、戦死した岩本らを[[火葬]]するさいに、火葬のために使った[[ガソリン]]缶に引火し爆発、辺り一面に火災が広がり、[[社本忍]][[軍曹]] が大火傷を負ってしまった<ref>{{Harvnb|高木俊朗㊤|1983|p=255}}</ref>。これで「万朶隊」で健在な搭乗員はたった5名になってしまった<ref>{{Harvnb|鴻上尚史|2017|p=|loc=電子版, 位置No.814}}</ref>。