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== 歴史 ==
万寿寺の起源は、[[平安時代]]後期、[[白河天皇|白河上皇]]が六条内裏に建てた六条御堂にさかのぼる。『京城万寿禅寺記』などによると、白河天皇の皇女である郁芳門院([[
天皇が出家して上皇となったのも皇女の死がきっかけであったという。この御堂は、[[鎌倉時代]]には法然の弟子・[[湛空]]([[1176年]]-[[1253年]])が住し、湛空から[[十地覚空]]に受け継がれた。この頃には天台系[[浄土教]]の寺であったと見られる。[[正嘉]]年間([[1257年]]-[[1259年]])、十地覚空とその弟子の[[東山湛照]]が東福寺の[[円爾]]に帰依して[[臨済宗]]寺院となり、寺号も万寿禅寺と改めた。[[弘長]]元年([[1261年]])に開堂の儀が行われている。その後、[[文永]]10年([[1273年]])に火災に遭い、[[元徳]]2年([[1330年]])には[[後宇多天皇|後宇多院]]皇女の崇明門院から土地を賜って、六条の旧地のやや北方、[[高倉通]]の西、樋口小路(現代の[[万寿寺通]])の南の地点に移転した。付近には下京区万寿寺町、万寿寺中之町の町名が残る。
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