削除された内容 追加された内容
66行目:
 
=== 日本代表 ===
1997年にU-20に選出され、U-20ワールドカップでキャプテンとして5試合に出場<ref name="maga2012-011017-2" />
 
[[シドニー五輪]]を目指すU23代表でもフラット3の中心を担うと、[[2000年]][[6月18日]]の[[キリンチャレンジカップ]]・[[サッカーボリビア代表|ボリビア]]戦で日本代表初出場<ref name=daihyo/><ref name="maga2012-011017-2" />。シドニー五輪本大会ではオーバーエイジで加わった[[森岡隆三]]に押し出されベンチメンバーとなるが、森岡が累積警告による出場停止となったグループリーグ第3戦のブラジル代表選でスタメン起用される。
 
その後A代表の常連となるが、フラット3の中央には森岡が絶対的なレギュラーとして君臨しており、宮本はその控えの立場であった。[[2002 FIFAワールドカップ|2002年日韓W杯]]を前に森岡が怪我で一時離脱した際に出場した試合で不安定なプレーを繰り返すとしたうえに森岡の復帰を待望する声がきくなる。さらに開催直前の[[静岡産業大学サッカー部|静岡産業大学]]との練習試合で競り合った際に相手FW[[松下和磨]]の肘が顔に入り[[鼻骨#鼻骨骨折|鼻骨骨折]]すると<ref name="maga2012-011017-2" />これ森岡の復帰を待望する声が大きくなる。森岡が本大会に間に合わせる形で復帰したため、控えに戻った宮本だったが、初戦のベルギー戦で森岡が再び負傷してしまった事により緊急で途中出場。同点ゴールを献上してしまった事もあり、宮本のプレーを不安視する声もあがるが、次戦以降は不安視を一蹴するほどの獅子奮迅の活躍を見せ、日本代表初のベスト16進出に貢献。また前途の鼻骨骨折により顔面を保護するために[[兵庫医科大学|兵庫医大]]病院が用意した医療器具のフェイスガード(ノーズガード)を付けるこてのプレーった、元々白いガードに自らマジックで黒く塗り変えたため<ref name=tonda>
{{cite web|url=http://www.osaka-c.ed.jp/tondabayashi/pta/osiraseP/2008/koenkai.pdf |title=PTA講演会 親と子を考える 平成20年12月22日号 (p. 2) |format=PDF |publisher=[[大阪府立富田林高等学校]][[PTA]] |date=2008年12月22日 |accessdate=2010-08-26}}{{リンク切れ|date=2013年3月}}</ref>、その姿を見た海外のメディアから、[[バットマン]]と渾名された<ref name="maga2012-011017-2" /><ref>{{cite web |url=http://www.nikkansports.com/news2/japan/p-jp-tp0-020616-03.html |title=英では「バットマン」宮本が人気! |accessdate=2007年9月30日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020621070715/http://www.nikkansports.com/news2/japan/p-jp-tp0-020616-03.html |archivedate=2002年6月21日 }}日刊スポーツ、2002年6月16日</ref><ref group="注">元々白いガードを自らマジックで黒く塗り変えた</ref>。
本大会に間に合わせる形で復帰したばかりの森岡が、初戦のベルギー戦で再び負傷してしまった事により途中出場。同点ゴールを献上してしまった事もあり、宮本のプレーを不安視する声もあがるが、次戦以降は獅子奮迅の活躍を見せ、日本代表初のベスト16進出に貢献。
代表初ゴールは2004年2月7日のマレーシア戦<ref name=daihyo/><ref name="maga2012-011017-2" />。
 
トルシエ後の[[ジーコ]]JAPANでは、発足時よりキャプテンを務めた[[中田英寿]]が[[故障]]で離脱して以降、出場した試合全てのキャプテンを務めた。代表初ゴールは2004年2月7日のマレーシア戦。同年の[[AFCアジアカップ2004|アジアカップ]]準々決勝の[[サッカーヨルダン代表|ヨルダン]]戦の[[PK戦]]では、[[中村俊輔]]と[[三都主アレサンドロ]]が外したことで窮地に陥ると、マレーシア出身の[[スブヒディン・モハマド・サレー]]主審に、「これはフェアじゃない。ピッチ状態がよいほうでやるべきだ」と通訳なしでPKの位置変更を申し入れ、前代未聞のPK戦途中でのサイド位置を実現させた<ref>{{Cite web|date=2010-05-24|url=http://number.bunshun.jp/articles/-/24178?page=6 |title=アジア杯・ヨルダン戦 奇跡には理由がある。 |publisher=[[Sports Graphic Number|Number Web]] |accessdate=2012年3月30日}}</ref>。結果、[[川口能活]]のファインセーブもありこのPK戦を制すると、日本代表は2大会連続のアジア制覇を果たし、自身も大会ベストイレブンに選出された。
 
2006年、自身2大会連続2度目のワールドカップ出場となった[[2006 FIFAワールドカップ|2006年ドイツW杯]]では、第1戦(オーストラリア戦)と第2戦(クロアチア戦)はフル出場したが、第3戦(ブラジル戦)は累積警告により出場出来なかった<ref name="maga2012-011017-2" />
 
日本代表ではU-17からA代表に至るまでの全カテゴリでキャプテンを務めた<ref>{{Cite web|url=http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/0i0c/102294/ |title=IBM SPECIAL LEADER'S INSIGHT インタビュー 宮本恒靖氏 |publisher=[[日経ビジネス]] |accessdate=2010-08-26}}</ref>。