「パウルス・ディアコヌス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
13行目:
パウルスの現存する著作は『{{仮リンク|ラテン教父全集|en|Patrologia Latina}}』の95巻(1861年)に編纂されている{{sfn|Chisholm|1911|p=964}}。
 
パウルスの最も重要な著書は『''{{仮リンク|ランゴバルド史|en|Historia Langobardorum}}''』である。この未完成の歴史書は、6巻からなり、おそらくモンテ・カッシーノで787年以降に書き始められ、795/6年まで書かれた。 それはスカンディナヴィアにおけるランゴバルド族の伝説的な起源とその後の移住の物語で、とりわけ568/9年のイタリア侵入から744年のリウトプランド王の死を扱い、その時代の[[ビザンツ帝国]]や[[フランク族]]Iおよびその他を諸民族や国家についての情報も多く含まれている。ランゴバルドの視点から語られ、特にフランク人とランゴバルドの関係の史料として価値がある。それは以下のように始まる:{{sfn|Chisholm|1911|p=964}}
{{quotation|北の地域では、太陽の中心から逸れるにつれて、雪や霜とともに寒気が到来する。そこでは男たちの体にとってより健康的で、諸民族が子供を産むのにも適している。一方、南の国は太陽の中心により近いため、病気が多く、人間にとって子供を育てるのには適していない。{{sfn|Chisholm|1911|p=964}} }}
 
20行目:
『ランゴバルド史』と同系のものには、パウルスの『ローマの歴史(Historia Romana)』があり、これは[[エウトロピウス]]の『{{仮リンク|略史|en|Breviarium}}』の続編である。これは766年と771年の間にベネヴェントで完成した。この話の流れは、パウルスがアーデルペルガにエウトロピオスを読むよう推奨したことを裏付けている。彼女はエウトロピウスを読むことを試みたものの、異教徒の著述家が本質的なことについて何も書かず、364年の皇帝[[ヴァレリアヌス]]の登位で終わってしまっていることに不満をもらしたため、パウルスは、エウトロピウスと一緒に他の史料と最も重要歴史家や聖書の内容を織り交ぜて続きを書き、6巻を追加し、553年まで書かれることとなった。これは中世において非常に人気があったが、現在でも西方におけるローマ帝国の終焉の早期の歴史的著作として価値がある。[[ヨハン・グスタフ・ドロイゼン|ドロイゼン]]により編集され''Monumenta Germaniae Historica. Auctores antiquissimi'', Band ii. (1879)として出版され{{sfn|Chisholm|1911|p=964}}、A. Crivellucci の ''Fonti per la storia d' Italia'', n. 51 (1914)にも収録されている{{citation needed|date=April 2016}}。
 
パウルスは、{{仮リンク|メス教区|en|Roman Catholic Diocese of Metz|label=メス}}の司教{{仮リンク|アンゲルラムヌス|en |Angilram}}の要望で766年までのメス司祭の事績を書いた<ref>『ランゴバルドの歴史』解題、p.234。</ref>。これは[[アルプス]]の北での最初の著作となり、2013年に英訳が''Liber de episcopis Mettensibus'' という題名で出版された。彼は多数の手紙や詩、碑文を書き、これらのうちには、ベネヴェント公アリキス2世のものや、多くのカロリング一族のものも含まれている。幾つかの手紙は『ランゴバルド王国史(Historia Langobardorum)』とともに、「モヌメンタ(Monumenta)」に収録されている。詩作と碑文は{{仮リンク|Ernst Dümmler|en|Ernst Dümmler}}が''Poetae latini aevi carolini'', Band&nbsp;i. (Berlin, 1881)の中から見出した。新しい資料は光をもたらし、1908年にKarl Neffが編集し出版した詩集の新版 ''Die Gedichte des Paulus Diaconus'' (Munich, 1908){{sfn|Chisholm|1911|p=965}}は、編集者に否定されているが、パウルスに帰せられるもっとも有名な詩が[[聖ヨハネ賛歌|聖ヨハネ賛歌集]]に収められている。[[グイード・ダレッツォ]]が楽曲をつけた[[洗礼者ヨハネ]]の賛歌のメロディーは、以前は[[ホラティウス]]の「『カルミナ』抒情詩集({{仮リンク|Odes|en|Odes (Horace)}})」にも使われていた [[s:la<!--Latin-->:Carmina (Horatius)/Liber IV/Carmen XI|4.11]].{{sfn|Lyons|2007|p={{page number|date=April 2016}} }}。パウルスは碑文も書いていて、「{{仮リンク|Sextus Pompeius Festus|en|Sextus Pompeius Festus}}」''''「{{仮リンク|De significatu verborum|en|De significatu verborum}}」''などが現存している。それらはカール大帝にささげられている{{citation needed|date=April 2016}}。
 
フランク王国の滞在中に、パウルスはカール大帝から説教集の編纂を依頼された。彼はモンテ・カッシーノに帰還した後、編纂作業を行ない、説教集はフランク王国の教会で広く使われた。教皇[[グレゴリウス1世]] の生涯の記録は彼に帰せられている{{sfn|Chisholm|1911|p=965}}。彼はギリシア語著作『[[エジプトのマリア]]の生涯』のラテン語訳も行なっている{{citation needed|date=April 2016}}。