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璽光尊こと長岡良子は、1903年(明治36年)、[[岡山県]][[御津郡]][[江与味村]](現[[久米郡]][[美咲町]]江与味)に農家の娘として誕生した。当時の名前は'''大澤 ナカ'''<ref name="reinousyaretuden"/>(おおさわ なか、'''大澤 奈賀'''とも)。
 
璽宇の公式見解によると、璽光尊は旧[[岡山藩]]池田家第13代当主の[[侯爵]][[池田詮政]]と[[安喜子女王|安喜子]]夫人との間に生まれたご[[落胤]]なのだという。ただし「落胤」とは高貴な男性が配偶者ではない女性と関係して産ませた私生児のことを意味する語なので、この場合は意味が通じない。安喜子夫人は皇族の出自で、池田家へ降嫁する前は安喜子女王といった。[[久邇宮朝彦親王]]の第三王女で、[[香淳皇后|香淳皇后(良子女王)]]の父・[[久邇宮邦彦王]]の姉にあたる。つまり璽光尊は自身と香淳皇后良子女王が従姉妹同士と信じて疑わなかったのである。
 
[[高等小学校]]卒業後は「見習い看護婦」になり、[[眼科学|眼科]][[診療所]]に勤めた。20歳のときに正式な[[看護師]]となるため、神戸に出て看護婦[[養成学校]]に通った。卒業後は眼科診療所に戻っている。
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峰村が1941年(昭和16年)に「'''璽宇'''」を創設すると、長岡ナカも参加した。しかし主宰者の峰村は事業に失敗し、弱気になったことで[[カリスマ]]性を失いつつあった。逆に長岡は落ち着いた威厳ある態度を示したことで、信者の信望を集めるようになった。なお、この頃には弟子を5、6人抱えていたという。
 
1945年(昭和20年)5月25日の[[東京大空襲]]で璽宇本部として使用していた峰村邸が焼失したことで、峰村は別荘がある[[山中湖]]畔に疎開することになり、璽宇は事実上、長岡が主宰する宗教団体へと変貌していった。このころ'''長岡 良子'''(ながおか ながこ)と名乗るようになる。この改名も香淳皇后良子女王にあやかったものと考えられる<ref name="reinousyaretuden"/>。
 
同年6月25日、神からのお告げがあったとして自らを「'''璽光尊'''」と名乗る<ref name="reinousyaretuden"/>。