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ネパール語: दार्जिलिंग; Dārjiling, ベンガル語: দার্জিলিং; Dārjiliṃ, /チベット文字:རྡོ་རྗེ་གླིང; ワイリー方式:rdo rje gling,「金剛の地」の意[2]
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[[ファイル:Darjeeling1.jpg|thumb|left|ダージリンから見たカンチェンジュンガ]]
[[ファイル:Darjeeling St. Andrew's Church.jpg|thumb|left|ダージリンの聖アンドリュー教会。1843年に創建、1873年に再建された]]
'''ダージリン'''({{Lang-ne|दार्जीलिङ्गदार्जिलिंग}}; Dārjiling, {{lang-bn|দার্জিলিং}}; Dārjiliṃ, {{Lang-en|Darjeeling}}, {{Lang-zh|大吉嶺}})は、[[インド]]の[[西ベンガル州]]の{{仮リンク|ダージリン地方|en|Darjeeling district}}の中心都市である。人口は[[2011年]][[3月1日]]時点で11万8805人<ref>[http://www.citypopulation.de/php/india-westbengal.php City Population]閲覧日:2018年11月24日</ref>
人口は[[2011年]][[3月1日]]時点で11万8805人<ref>[http://www.citypopulation.de/php/india-westbengal.php City Population]閲覧日:2018年11月24日</ref>。
[[ヒマラヤ山脈]]低部のシワリク丘陵に位置し、平均[[標高]]は約2134mである。
北方に標高世界第3位の高峰[[カンチェンジュンガ]]が遠望できる。
 
ダージリンは[[ヒマラヤ山脈]]低部のシワリク丘陵に位置し、平均[[標高]]は約2134mである。北方に標高世界第3位の高峰[[カンチェンジュンガ]]が遠望できる。インドの[[平野|平野部]]に比べて冷涼な気候であり、夏は過ごしやすい。[[イギリス領インド帝国|イギリス領]]の時代には、インドに住む[[イギリス人]]のための[[避暑地]]として栄えた
[[イギリス領インド帝国|イギリス領]]の時代には、インドに住む[[イギリス人]]のための[[避暑地]]として栄えた。
ダージリンの元の名称は[[チベット語]]の「ドルジェ・リン」(雷の地、{{unicode|rdo rje gling}})である。
[[19世紀]]初頭までは[[シッキム王国]]が支配していたが<ref>Dasgupta, Atis (1999). "Ethnic Problems and Movements for Autonomy in Darjeeling". Social Scientist. 27 (11–12): 47–68. JSTOR 3518047. doi:10.2307/3518047.</ref>、[[ネパール]]の[[ゴルカ王国]]が、度重なる侵攻により、19世紀初頭には、ティースタ川までシッキムを駆逐し、[[テライ]]を併合していた。
[[1814年]]~[[1816年]]の[[グルカ戦争]]の結果として、ゴルカ王国により[[イギリス東インド会社]]に割譲された<ref>http://www.darjeeling.gov.in/darj-hist.html</ref>。
イギリスの植民地時代にイギリス人が呼びやすい呼称にしたのがダージリンである。
 
ダージリンの元の名称は[[チベット語]]の「ドルジェ・リン」({{bo|t=རྡོ་རྗེ་གླིང|w=rdo rje gling}},「[[金剛杵|金剛]]の地」の意<ref>[[wiktionary:en:Darjeeling]]</ref>)である。[[19世紀]]初頭までは[[シッキム王国]]が支配していたが<ref>Dasgupta, Atis (1999). "Ethnic Problems and Movements for Autonomy in Darjeeling". Social Scientist. 27 (11–12): 47–68. JSTOR 3518047. doi:10.2307/3518047.</ref>、[[ネパール]]の[[ゴルカ王国]]が、度重なる侵攻により、19世紀初頭には、ティースタ川までシッキムを駆逐し、[[テライ]]を併合していた。[[1814年]]~[[1816年]]の[[グルカ戦争]]の結果として、ゴルカ王国により[[イギリス東インド会社]]に割譲された<ref>http://www.darjeeling.gov.in/darj-hist.html</ref>。イギリスの植民地時代にイギリス人が呼びやすい呼称にしたのがダージリンである
ダージリンは[[ダージリン・ティー]]の栽培で国際的に有名である。
ダージリンでの[[紅茶]]の栽培は[[19世紀]]中頃の[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]による開発、[[ロバート・フォーチュン]]による[[チャノキ]]の[[中国]]からの移入に遡る。
この地域特有の栽培品種と[[発酵]]技術から生産された[[茶葉]]をブレンドした紅茶は、世界で最高級の紅茶とされる<ref name="teabest">{{cite news |url = http://www.deccanherald.com/deccanherald/jun172005/living1150492005616.asp |title = Champagne among teas |work = Deccan Herald |publisher = The Printers (Mysore) Private Ltd. |date = 17 June 2005 |accessdate = 2006-07-18 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070221074118/http://www.deccanherald.com/deccanherald/jun172005/living1150492005616.asp |archivedate = 2007年2月21日 |deadurldate = 2017年9月 }}</ref>。
 
ダージリンは[[ダージリン・ティー]]の栽培で国際的に有名である。ダージリンでの[[紅茶]]の栽培は[[19世紀]]中頃の[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]による開発、[[ロバート・フォーチュン]]による[[チャノキ]]の[[中国]]からの移入に遡る。この地域特有の栽培品種と[[発酵]]技術から生産された[[茶葉]]をブレンドした紅茶は、世界で最高級の紅茶とされる<ref name="teabest">{{cite news |url = http://www.deccanherald.com/deccanherald/jun172005/living1150492005616.asp |title = Champagne among teas |work = Deccan Herald |publisher = The Printers (Mysore) Private Ltd. |date = 17 June 2005 |accessdate = 2006-07-18 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070221074118/http://www.deccanherald.com/deccanherald/jun172005/living1150492005616.asp |archivedate = 2007年2月21日 |deadurldate = 2017年9月 }}</ref>。
この一帯では、西ベンガル州から[[グルカランド]]の分立・[[独立]]を求める[[グルカ族]]の民族運動が起きている。
 
この一帯では、西ベンガル州から[[グルカランド]]の分立・[[独立]]を求める[[グルカ族]]の民族運動が起きている。その一環である[[ストライキ]]により、紅茶の生産にも影響が出ている<ref>印ダージリン 茶農園が無期限スト/隣国ネパール 絶好機『[[日経産業新聞]]』2017年8月23日アジア・ グローバル面</ref>。
 
ダージリンと平野部の{{仮リンク|ニュー・ジャルパイグリ駅|en|New Jalpaiguri Junction railway station}}を繋ぐ[[ダージリン・ヒマラヤ鉄道]]は、インドに残る[[蒸気機関車]]が走る数少ない路線の一つであり、[[1999年]]に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。