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かつてフルチーンは[[シロンスク公国群|オパヴァ公国]]の一部であったが、[[第一次シュレージエン戦争]]後の[[ベルリン条約 (1742年)|ベルリン条約]]によってオパヴァ川を境に[[ハプスブルク君主国]]領と[[プロイセン王国]]領に分断された。町は[[第一次世界大戦]]後の1920年に[[チェコスロバキア]]領となるが、フルチーンを含む旧プロイセン領[[シレジア]]地域の領有を巡っては[[ドイツ]]、[[チェコ]]、[[ポーランド]]の間で大きな議論を生んだ。1938年の[[ミュンヘン会談|ミュンヘン協定]]後、フルチーンは[[ナチス・ドイツ]]に併合され、再びプロイセン・シレジアの一部となると共にドイツ名の Hultschin へと改称された。[[第二次世界大戦]]後の1945年、フルチーンは再度チェコスロバキア領となり、ドイツ系住民の多くは追放された。
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==