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fr:Michel Hidalgo le 6 juin 2020 à 12:33. (CEST UTC+2)より幼年時代を少し翻訳
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|国={{FRA}}
|生年月日={{生年月日と年齢|1933|3|22|no}}
|出身地=[[ノール県]]{{仮リンク|ルフランクーク|fr|Leffrinckoucke}}
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1933|3|22|2020|3|26}}
|身長=168cm
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== 経歴 ==
父はスペイン人の冶金労働者で、母はパリ地域の出身<ref>Michel Hidalgo, Football en bleus, Éditions Ramsay, avril 1982, 171 p. (ISBN 2-85956-259-1)</ref>。一卵性双生児の兄弟、セルジュがいる。一家はノルマンディー冶金会社の高炉近くにあり、[[カーン]]の郊外にある労働者の町モンドヴィルに移り住んだ<ref>{{ouvrage|prénom1=Gilles|nom1=Henry|titre=Les célèbres de Caen|éditeur=Maître Jacques|lieu=Condé-sur-Noireau|année=2000|pages totales=240|passage=114|isbn=2912047277}}</ref>。イダルゴは[[ノルマンディー]]で育ち、地元のサッカークラブでサッカーを学んだ。
イダルゴは[[ノルマンディー]]で育ち、地元のサッカークラブでサッカーを学んだ。[[ル・アーヴルAC]]で選手経歴を開始し、2年後に[[スタッド・ランス]]移籍した。ランスではFWの[[レイモン・コパ]]やDFの[[ロベール・ジョンケ]]らと共に中心選手として活躍し、2度のリーグ優勝と、2度の[[クープ・ドゥ・フランス]]優勝、[[1956年]]の[[UEFAチャンピオンズカップ 1955-56|UEFAチャンピオンズカップ]]準優勝に貢献。チャンピオンズカップ決勝の[[レアル・マドリード]]戦では3-4で敗れたものの、1得点を決める活躍をみせた。
 
イダルゴは[[ノルマンディー]]で育ち、地元のサッカークラブでサッカーを学んだ。[[ル・アーヴルAC]]で選手経歴を開始し、2年後に[[スタッド・ランス]]移籍した。ランスではFWの[[レイモン・コパ]]やDFの[[ロベール・ジョンケ]]らと共に中心選手として活躍し、2度のリーグ優勝と、2度の[[クープ・ドゥ・フランス]]優勝、[[1956年]]の[[UEFAチャンピオンズカップ 1955-56|UEFAチャンピオンズカップ]]準優勝に貢献。チャンピオンズカップ決勝の[[レアル・マドリード]]戦では3-4で敗れたものの、1得点を決める活躍をみせた。
 
引退後は指導者の道へ進み、[[フランスサッカー協会]]の指導スタッフを務めた。[[1976年]][[3月27日]]に、[[シュテファン・コヴァチ]]の後任として[[サッカーフランス代表|フランス代表]]の監督に就任した。イダルゴはフランスらしいテクニックを重視したサッカーを標榜し、[[ミシェル・プラティニ]]を筆頭に若く才能ある選手達を積極的に起用した。[[1978年]]の[[1978 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会]]出場に導くと、[[1982年]]の[[1982 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・スペイン大会]]では4位、地元開催となった[[1984年]]の[[UEFA欧州選手権1984|UEFA欧州選手権]]では、プラティニを中心としたサッカーで同国を初優勝に導いた。フランス代表監督として、1976年から1984年の間に75試合の指揮を執り41勝16分18敗、139得点72失点の成績を残した。
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[[Category:1978 FIFAワールドカップ監督]]
[[Category:1982 FIFAワールドカップ監督]]
[[Category:スペイン系フランス人]]
[[Category:1933年生]]
[[Category:2020年没]]