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'''聖俗二元論'''(せいぞくにげんろん)とは、聖と俗の二分法。
'''聖俗二元論'''(せいぞくにげんろん)とは、聖と俗の二分法。[[フランス]]の[[社会学者]]、[[エミール・デュルケーム]]は聖と俗の二分法を[[宗教]]の中心的特色であると考え、「宗教とは、聖なる事物、すなわち分離され禁止された事物に関わる信念と実践とが連動している体系」であると述べている<ref>デュルケーム、2014、p. 95。</ref>。デュルケームの理論においては、聖なるものは特定集団の関心、とりわけ統一性を表象するものであり、これはその集団が共有する聖なる象徴、[[トーテム]]に具体的にあらわれている。他方、俗なるものは日頃の個人の関心事に関わるものである。デュルケームは聖俗二元論は善悪の区分と同一ではないと明白に述べている。聖なるものは善であることもあれば悪にもなりうるものであり、俗なるものもどちらにもなりうる<ref>Pals 1996, p. 99</ref>。
 
== 概要 ==
'''聖俗二元論'''(せいぞくにげんろん)とは、聖と俗の二分法。[[フランス]]の[[社会学者]][[エミール・デュルケーム]]は聖と俗の二分法を[[宗教]]の中心的特色であると考え、「宗教とは、聖なる事物、すなわち分離され禁止された事物に関わる信念と実践とが連動している体系」であると述べている<ref>デュルケーム、2014、p. 95.</ref>。デュルケームの理論においては、聖なるものは特定集団の関心、とりわけ統一性を表象するものであり、これはその集団が共有する聖なる象徴、[[トーテム]]に具体的にあらわれている。他方、俗なるものは日頃の個人の関心事に関わるものである。デュルケームは聖俗二元論は善悪の区分と同一ではないと明白に述べている。聖なるものは善であることもあれば悪にもなりうるものであり、俗なるものもどちらにもなりうる<ref>Pals 1996, p. 99.</ref>。
 
==批判==
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==参考文献==
* [[エミール・デュルケーム]] 『宗教生活の基本形態  上』山﨑亮訳。
* Pals, Daniel (1996) ''Seven Theories of Religion.'' New York: Oxford University Press. US ISBN 0-19-508725-9 (pbk).