「新疆ウイグル自治区」の版間の差分

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[[古代中国]]から[[西域]]と呼ばれたこの地域は[[中央アジア]]や中国との政治的・経済的な繋がりを古くから有し、[[オアシス都市]]国家が繁栄し、[[漢]]代と[[唐]]代には、中国の直接支配下に置かれた時期もあった。
 
[[隋]]の[[煬帝 (隋)|煬帝]]の[[大業]]5年([[609年]])、[[楊広]]煬帝が自ら隋軍を指揮して[[吐谷渾]]を征服、現在の新疆南東部を実効支配し始めた。[[中原]]王朝が西域の実効支配もその時期から始めた。
 
唐の[[太宗 (唐)|太宗]]の[[貞観 (唐)|貞観]]14年([[640年]])、唐軍が[[高昌]]を占領し、[[西州 (新疆ウイグル自治区)|西州]]を設置した。また可汗浮図城において[[庭州]]を設置した。同じ年、高昌で[[安西都護府]]を設置。後[[クチャ県|庫車]]へ遷し、[[安西大都護府]]へ転換。
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唐代後期、[[ウイグル帝国]]の支配下に入り、9世紀、ウイグル帝国が瓦解したのちも、[[ウイグル人]]の残存勢力による支配が続いた。
 
13世紀、[[モンゴル]]帝国]]の勃興によりその支配下に組み込まれ、[[チャガタイ]]とその子孫による支配が行われた。16世紀に至り[[ヤルカンド・ハン国]]が地域を統一したが、17世紀末[[ジュンガル]]に征服された。
 
=== 清朝===
[[1755年]]にジュンガルにおける清朝の領域はほぼ確実なものとなった。
[[1775年]]以降、[[清]]の[[ジュンガル]]征服([[清・ジュンガル戦争]])にともなってその支配下に入るに至り、「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、回疆)、「故土新帰」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆)などと清朝側から呼ばれた。[[19世紀]]には各地で反清反乱が相継ぎ、[[ヤクブ・ベクの乱]]によって清朝の支配は崩れたが、[[左宗棠]]により再征服され、[[1884年]]に[[中国内地]]並の[[省|省制]]がひかれて'''[[新疆省]]'''となった。
 
=== 中華民国以降===
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* [[ボルタラ・モンゴル自治州]]
* [[バインゴリン・モンゴル自治州]]
* [[石河子市]]
* [[タルバガタイ地区]]
* [[石河子市]]
 
=== 住民構成表 ===