「大杉守一」の版間の差分

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'''大杉 守一'''(おおすぎ もりかず、[[1892年]](明治25年)[[3月11日]] - [[1948年]](昭和23年)[[8月28日]])は、日本の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]。最終階級は[[中将|海軍中将]]。弟に[[吉岡忠一]]海軍中佐([[真珠湾攻撃]]に参加)がいる
 
== 経歴 ==
1892年3月11日、[[静岡県]]で父・大杉喜三郎の子として生まれる。弟に[[吉岡忠一]]海軍中佐がいる。[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#41期|41期]]、[[海軍大学校]]25期卒。同期には、兵学校で[[木村昌福]]、[[市丸利之助]]、大学校では[[柳本柳作]]、[[加来止男]]らがいる。大佐時代の1941年には第3遣支艦隊参謀長として、日本軍支那占領下で成立した中国親日政権「南京国民政府[[汪兆銘政権]](首班[[汪兆銘]])」の新中国海軍育成に尽力し、多大な成果を挙げた<ref>『支那事変 第10回功績概見表綴』「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14121010500、自昭和16年6月 至昭和16年11月(防衛省防衛研究所)」   【新支那海軍整備並指導要綱機密支那方面艦隊命令第一五号別冊日本海軍顧問団服務規程及第三遺支艦隊命令第六一号威海衛海軍要港部指導部令ニ基キ日支海軍ノ協同作戦ニ適応スル如ク中国海軍機構制度ノ確立艦舶艇並ニ諸施設ノ整備充実及人員ノ育成指導ニ従事 新中国海軍ノ基歴ハ確立シ発展ノ一途ヲ連リ日支協力ノ趣旨ニ従ヒ北支沿岸作戦ノ補助兵力トシテ事変処理ニ従事多大ノ成果ヲ挙ゲタリ】</ref>。1943年11月2日[[ブーゲンビル島沖海戦]]に第十戦隊司令官として参戦。同月11日の[[ラバウル空襲]]において旗艦[[阿賀野 (軽巡洋艦)]]座乗指揮中、敵機機銃掃射により重症を負う。[[1944年]][[1月26日]]、[[海軍根拠地隊|第二十三特別根拠地隊]][[司令官]]に任命され、[[インドネシア]]の[[マカッサル]]に着任。終戦後、蘭印マカッサル裁判([[マニラ軍事裁判]])で死刑判決。[[1948年]][[8月28日]]刑死。
 
== 年譜 ==