削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目:
{{出典の明記|date=2020年7月}}{{基礎情報 武士|氏名=岡重政|墓所=|妻=小石殿|兄弟=|父母=|氏族=|主君=[[蒲生氏郷]]→[[蒲生秀行|秀行]]|官位=|戒名=|画像=|別名=|改名=|死没=[[慶長]]18年([[1613年]])|生誕=不明|時代=[[安土桃山時代]]、[[江戸時代]]|画像説明=|画像サイズ=|子=[[岡吉右衛門]]}}
 
'''岡 重政'''(おか しげまさ、? - [[慶長]]18年[[1613年]]))〉)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]の[[蒲生氏]]の[[家臣]]。
 
== 生涯 ==
8行目:
[[蒲生氏郷]]に仕えるが、[[文禄]]4年([[1595年]])に氏郷が死去するとその嫡子の[[蒲生秀行 (侍従)|秀行]]に仕えた。秀行は幼少のため、[[関ヶ原の戦い]]を経て秀行が会津に戻されると、重政は仕置奉行に任命されて藩政を担当した。だが、慶長17年([[1612年]])に秀行が30歳の若さで亡くなり、その後継者に秀行と[[正清院|振姫]]の嫡子である[[蒲生忠郷|忠郷]]が家督を継承するが、忠郷は相続時わずか10歳のため、母親の振姫が後見人となって藩政を見ることになった。このため、後見人の振姫と仕置奉行の岡による抗争が始まる。岡は振姫と意見が合わず、また氏郷没後からの[[蒲生騒動]]が再燃したため、振姫の父である[[徳川家康]]や兄の[[徳川秀忠|秀忠]]も家中騒動を懸念して法度を示して目付を下向させるなどしている。
 
だが、岡と振姫の抗争はやまず、慶長18年(1613年)に家康の命令で岡は[[駿府城]]に召還されて[[死罪]]を命じられた。息子の吉右衛門は同僚の[[町野幸和]](重政の補佐役を務めていた)の庇護を受け、その娘を娶り、於振([[自証院]])を生んだ。於振は[[春日局]]の[[養女]]となり、[[江戸幕府]]の第3代[[征夷大将軍]]・[[徳川家光]]の[[側室]]として長女の千代姫([[霊仙院]])を生み、この血統は現在まで存続している
 
息子の吉右衛門は同僚の[[町野幸和]](重政の補佐役を務めていた)の庇護を受け、その娘を娶り、於振([[自証院]])を生んだ。於振は[[春日局]]の[[養女]]となり、[[江戸幕府]]の第3代[[征夷大将軍]]・[[徳川家光]]の[[側室]]として長女の千代姫([[霊仙院]])を生み、この血統は現在まで存続している。
 
{{DEFAULTSORT:おか しけまさ}}