「祝朝奉」の版間の差分

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杜興の提案で、楊雄と石秀は祝朝奉の縁戚関係で盟友でもある李家荘の主[[李応]]を通じて、捕縛された時遷の解放を祝朝奉に要求するが、手紙による要求は祝家の三兄弟に侮辱と共に一蹴され、李応自身が直接出向いて直談判に及ぼうとすると、かえって祝彪の手で矢傷を負わされてしまう。万策尽きた楊雄らは李家を辞し、そのまま梁山泊に駆け込むと、首領の晁蓋、副首領の[[宋江]]らに時遷の救出を懇願したところ、梁山泊の側でも人員の増加に伴い糧秣が不足していた関係から、祝家荘攻略が宋江、[[呉用]]らからも提言され、宋江を総大将とする遠征軍が編成される運びとなった。
 
かくして祝家荘は梁山泊軍と干戈を交えることになったが、元々梁山泊軍の来襲に備えて軍備を固めていた祝家荘の守りは堅牢であり、欒廷玉や扈家荘から援軍として駆けつけてきた、同じく縁戚関係にある女将軍[[扈三娘]](祝彪の婚約者)の活躍もあって、多数の英雄豪傑を抱える梁山泊軍を相手に互角以上の戦いを繰り広げる。[[林冲]]の手で扈三娘が捕縛されてしまう一幕もあったものの、2度の戦いで[[黄信]]、[[楊林 (水滸伝)|楊林]]、[[王英 (水滸伝)|王英]]、[[秦明]]、[[トウ飛|鄧飛]]を手取りにするという赫々たる戦果を挙げた。
 
しかし、欒廷玉の義兄弟であり豪傑としても名高い登州の提轄[[孫立]]とその一族を、味方として自陣に招き入れてしまったことから、その優位は揺らぎを見せ始める。孫立が家族を連れていたことや、武芸師範である欒廷玉の昔馴染みであることから、祝朝奉も息子たちも彼らのことをすっかり信用してしまっていたが、実は孫立は既に梁山泊に通じており、内応のために送り込まれていた。孫立は攻め寄せてきた石秀を捕縛してみせ、祝朝奉たちを信用させると、四手に分かれて梁山泊軍が総攻撃を仕掛け、三傑や欒廷玉らがその迎撃のために出撃した頃合を見計って、捕らえられた頭領たちを解放し、屋敷に居た者たちを皆殺しにした。祝朝奉は井戸の中に身を隠そうとしたが、石秀によって首を討たれてしまう。迎撃に出ていた息子たちもそれぞれ討ち取られ、祝家荘の50万石に及ぶ金銭糧秣はことごとく梁山泊によって接収される。