「宣王 (斉)」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2018年7月4日 (水) 14:28 (UTC)}}
'''宣王'''(せんおう、? - [[紀元前301年]])は、[[中国]]の[[田斉]]
== 戦国策の記述 ==
[[紀元前342年]]、[[韓 (戦国)|韓]]の
:宣王、「すぐ救うか、ゆるゆる救うか、どちらが好都合だろう」
:[[張丏]]は、「ゆるゆる救えば、韓は挫けて
:[[田忌]]、「それはいけません。そもそも、韓・魏両軍が疲れぬうちに救いに出れば、こちらが韓にかわって魏に攻められ、逆に韓に指図を仰ぐことになるでしょう。そのうえ、由来、魏には、韓を破ろうという宿志があります。韓は、滅びるとみれば、かならず東のかた斉に訴えてまいりましょう。そこで、密かに韓と親交を結び、そしてゆるゆる魏の疲れに乗ずる、というようになされば、お国は重みを加え、利を得られ、お名は尊ばれることとなりましょう
宣王は、「なるほど」と納得し、韓の使者に承知の旨を告げて帰した。韓は、斉はこっちのものと一人合点し、5度戦ったが5度とも敗れ、斉に訴えてきた。そこで斉は軍旅を催して魏を討ち、[[馬陵の戦い|馬陵]]で散々に打ち破った。
魏は敗れ、韓は弱まり、韓・魏の国君は田嬰のとりもちで、北面して宣王に朝貢した。
ところで、靖郭君は[[
:「王はいたって私がお嫌いだ。あなたが行けば、命を落とされるのは必定です」と言うが、
:
貌弁が宣王に拝謁すると、
:宣王、「あなたは、靖郭君のお気に入りで、何事も重用されておるのだろう」と。
:
::『太子は不尽の相、頤が大きすぎますし、豕のように盗み見なさいます。このような人物は道に背いたことをするもの。太子を廃されて、あらためて衛姫の嬰児の郊師さまをお立てになるに越したことはございません』
:と申し上げますと、泣いて仰せになりました。
::『それはできない。私には忍びない』
:と。もしこのとき私の言葉を聞きいれておいでになれば、今日のご心配は無かったに違いありません。これがその一つ。薛にお越しになると、[[楚 (春秋)|楚]]の[[昭陽 (楚)|昭陽]]は、数倍の土地を薛と交換しましょうと申し入れてまいりました。手前は、
::『お受けなされよ』
:と申し上げますと、靖郭君は
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宣王は大息し、
:「靖郭君が私を思ってくれていたとは。私は若年で、一向に気づかなかった。一つ私のために、靖郭君を来させるよう、骨を折ってはくれないか」と言い、
:
威王の衣冠をつけ、その剣を帯びて靖郭君は赴き、宣王は郊外まで出迎え、亡き父に生き写しの靖郭君をみて、涙を流した。靖郭君に宰相になるよう請うたが、靖郭君は辞退した。しかし、結局やむをえず宰相の印を授かった靖郭君であるが、7日ほどして病と称し、辞任しようとした。宣王は許さなかったが、3日目に聞きいれた。
また、宣王はよく学を奨励し、稷下の賑わいは威王の頃同様天下に轟き、有志の士や学者が斉に集まった。
{{田斉の君主|4代|前319年-前301年}}
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[[Category:斉の君主]]
[[Category:紀元前301年没]]
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