「佐瀬勇次」の版間の差分

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Neo-k (会話 | 投稿記録)
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盤上では目立った実績はなく、内弟子の米長邦雄が、家の雑用などをしたときのご褒美の対局を「お断りします。師匠と指したら、師匠の癖がつき、師匠どまりの棋士になる」と拒否して、げんこつを食らったという逸話もある<ref>NHK[[ラジオ深夜便]]</ref>。また「私が今日あるのは佐瀬先生に一局も教わらなかったから」とも言っていた。しかし師匠としては人望手腕ともに卓越しており、米長は「師匠どまりになる」と言ってげんこつを食らった逸話について「しばらくして『考えたら、お前の言うとおりだ』言われた」と明かしており「破門だ、出ていけ」と弟子に言わなかったのは名[[伯楽]]だとして深く敬っていた。
 
米長を内弟子として預かっていた昭和30年代初頭は将棋界全体が苦しい時代で、佐瀬もまた例外ではなく、北区・[[十条]]にある一軒家の二階を借りて住んでいたという<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=米長の将棋 完全版 第一巻|date=2013-06-30|year=2013|publisher=日本将棋連盟|author=米長邦雄|page=420|isbn=9784839947439|editor3-first=初出は将棋世界1984年11月号付録「私の修業時代」}}</ref>。そのような経済状態にありながら自らを内弟子として迎え入れてくれたことについて、後年の米長は「このご恩は何物にも替え難い。師匠にはとてもお返しできるものではない」と語っている<ref name=":0" />。
 
米長邦雄・丸山忠久と二人の名人の師匠となったが、これは近代将棋史上[[木見金治郎]]([[大山康晴]]・[[升田幸三]]の師匠)と佐瀬のみの記録である。