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[[580年]](太建12年)、[[侍中]]の任を加えられた。[[581年]](太建13年)、散騎常侍・丹陽尹となった。散騎常侍のまま吏部尚書に転じた。[[582年]](太建14年)、宣帝が死去し、[[陳叔陵]]が乱を起こすと、後主(陳叔宝)は中庶子の[[陸瓊]]に命じて宣旨を発し、南北の諸軍をともに毛喜の処分に委ねさせた。陳叔陵の乱が平定されると、毛喜は再び侍中の任を加えられた。[[583年]]([[至徳 (陳)|至徳]]元年)、信威将軍・[[永嘉郡]][[内史]]に任じられた。
 
ときに[[ビン州|豊州]][[刺史]]の章大宝が挙兵して反乱を起こした。永嘉郡と豊州は近接していたが、永嘉郡の防備が薄い状態にあったため、毛喜は城壁や堀を改修し、兵器類を整備した。さらに部下の松陽県令の周磻に1000の兵を与えて建安へ援軍に向かわせた。反乱が鎮圧されると、毛喜は[[南安郡]]内史に任じられた。[[587年]]([[禎明]]元年)、召還されて[[光禄大夫]]となり、左驍騎将軍の号を受けた。毛喜は南安郡において善政をおこない、離任にあたっては、かれを追い送る者が数百里に及んだという。この年のうちに道中で病死した。享年は72。文集10巻があった。
 
子の毛処沖が後を嗣ぎ、官は儀同従事中郎・中書侍郎に昇った。