「ホロコースト」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
99行目:
=== 独ソ戦初期における組織的殺戮 ===
[[ファイル:Bundesarchiv_Bild_183-B0716-0005-007,_Oberstes_Gericht,_Globke-Prozess,_Beweisstück.jpg|thumb|{{仮リンク|アインザッツグルッペン報告書|en|Einsatzgruppen reports}}の一つ、{{仮リンク|イェーガー報告書|en|Jäger Report}}の一部。]]
このような計画とは別に、独ソ戦の開始の翌日1941年6月23日以降、進撃するドイツ軍に追随してハイドリヒの[[国家保安本部]]の移動特別が組織した銃殺部隊[[アインザッツグルッペン]](特別行動部隊)が戦線後方の占領地域に展開し、時には現地の[[ラトヴィア]]人・[[リトアニア]]人・[[ベラルーシ]]人の協力を得て、ユダヤ人住民を組織的に殺戮した{{sfn|芝|2008|p=123}}。この一連の作戦において最も悲惨な例が、1941年9月29日・30日に起きた[[キエフ]]近郊の[[バビ・ヤール]]でのユダヤ人の大量殺害である。ユダヤ人は移住させるから集合せよとの布告で無警戒に集められ、入り組んだ地形を利用して先頭で行われる殺害を隠蔽し、長い列になったユダヤ人37,000人をアインザッツグルッペンが2日間で次々に射殺した。それ以降も同地は1943年8月まで使用されている。また、この大量殺害にはアインザッツグルッペンだけでなく[[武装親衛隊]]も関与しており、8月1日にはヒムラーから[[武装親衛隊]]第二騎兵連隊に対して「すべてのユダヤ人を射殺し、ユダヤ人女性は沼へ駆り立てろ」という命令が下っている{{sfn|芝|2008|p=119}}。8月3日には489名のユダヤ人を殺害させた武装親衛隊第8連隊の[[フリードリヒ・イェッケルン]][[親衛隊中将]]が、戦争の責任はユダヤ人にあり、ドイツ民族の生存を望まないユダヤ人は絶滅する必要があると演説している{{sfn|芝|2008|p=120}}。
 
銃撃による大量殺害は、銃撃する親衛隊員に過重な精神的な負担を負わせることとなった。たとえばオストログで8,000人のユダヤ人が殺害された際には、10名から15名の隊員が任務に堪えられないと申し出ている{{sfn|芝|2008|p=120}}。また、実際に銃殺を検分したヒムラーやアイヒマンも気分を悪くしたということも起きている{{sfn|芝|2008|p=126}}。このことから、ヒムラーはその他の殺害方法を検討するように命令した。アインザッツグルッペンBの司令官[[アルトゥール・ネーベ]]は、かつて障害者の安楽死政策[[T4作戦]]に関与していた親衛隊員を召還し、殺害方法についての実験を行わせた。爆薬による爆殺は時間がかかりすぎると判定されたものの、一酸化炭素によって殺害する{{仮リンク|ガス車|en|Gas_van}}の実験や、9月18日には施設に[[ガス室]]を設け、[[ツィクロンB]]によって精神障害者900人を殺害する実験が行われている{{sfn|芝|2008|p=128}}。ガス車を開発した[[ヴァルター・ラウフ]][[親衛隊大佐]]は、これによって兵士たちが重圧から解放されたと証言している{{sfn|芝|2008|p=128}}。
306行目:
ドイツにおいては強制収容所の囚人や、戦時捕虜などが強制労働に従事させられ、私企業にもその労働力が提供されるなど、経済面でこそ重要な価値を持っていた。1942年3月3日、[[親衛隊経済管理本部]]長官[[オズヴァルト・ポール]]親衛隊大将は「労働力の搾取は、労働が最も高い生産性に達するよう、可能性の限界まで押し進められなければならない」と言う指令を発し、強制労働はいよいよ苛酷なものとなった{{sfn|芝|2008|p=168}}。また、ゲッベルスも「労働を通じた抹殺こそは、最も優れた、最も生産的な方法である」と賞賛している{{sfn|芝|2008|p=169}}。ユダヤ人の扱いは戦時捕虜であったロシア人の扱いよりもさらに苛酷なものであり、日常的な殴打や殺害が横行した{{sfn|芝|2008|p=172}}。[[フロッセンビュルク強制収容所]]では、日曜日の朝の食事が[[ラード]]20[[グラム]]であったという{{sfn|芝|2008|p=172}}。各収容所では飢餓・虐待・病による数万人単位の犠牲者をそれぞれ出している{{sfn|芝|2008|pp=172-173}}。ポーランド当局の統計によると、[[マイダネク強制収容所]]の囚人50万人のうち、20万人が死亡したが、死因の6割は飢餓・病気・衰弱・拷問であり、後の4割がガス殺や銃殺であるとしている{{sfn|芝|2008|p=195}}。
 
=== 直接的な ===
ユダヤ人の銃殺は収容所や後述する「死の行進」などあらゆる場面で行われたが、特に多くのユダヤ人が犠牲になったのが独ソ戦開始後の大量銃殺である。1941年6月22日に独ソ戦が始まると、ドイツは破竹の勢いで進撃し、広大なソ連領土を占領下に置いた。ドイツの占領下に入った地域では[[アインザッツグルッペン]](特別行動部隊)と呼ばれた銃殺部隊を中心に、武装親衛隊によっても銃殺を用いた虐殺が行われた。この大量銃殺の犠牲者は1941年末までに50万人から80万人、最終的には130万人に達するとみられている{{sfn|芝|2008|pp=148-149}}。
ホロコーストのシンボルとして扱われるガス殺であるが、その割合は圧倒的なものではない。[[マイダネク強制収容所]]では7つのガス室をもうけ、ガス車をも利用したガス殺を行ったが、これが行われたのは一年ほどである{{sfn|芝|2008|pp=172-173}}。ガス殺導入後でも銃殺はかなりの割合を占めており、1943年11月3日にはマイダネクで機関銃によって1万7千名のユダヤ人が殺害されている{{sfn|芝|2008|pp=194-195}}。
 
=== ガス殺 ===
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所では1941年9月3日にソ連軍捕虜とポーランド人にたいして[[ツィクロンB]]による殺害が行われた{{sfn|芝|2008|p=203}}。これは害虫駆除のために用いたストックが十分に存在していたためであり、停止までアウシュヴィッツではツィクロンBが用いられ続けた{{sfn|芝|2008|pp=203-205}}。しかしラインハルト作戦で設置された三つの絶滅収容所では一酸化炭素が用いられている{{sfn|芝|2008|p=203}}。
[[毒ガス]]が虐殺の手段として利用されたのはホロコーストが初めてではなく、[[T4作戦]]では[[一酸化炭素]]を用いたガス殺が行われていた。当初、ホロコーストの主な殺害方法は大量射殺であったが、実行者の心理的負担が大きいことから他の殺害方法が検討されることになり、1941年9月には一酸化炭素および[[シアン化水素|青酸ガス]]を用いたガス殺実験が行われている。ホロコーストのガス殺では主に一酸化炭素と青酸ガスが用いられた。ガス殺が初めて本格的に用いられたのは最初の絶滅収容所として1941年12月に稼働した[[ヘウムノ強制収容所]]で、収容所には一度に150人を殺害できるガストラックが3台配備されていた{{sfn|芝|2008|pp=233-234}}。このガストラックは[[貨物自動車|トラック]]の[[排気ガス]]を密閉した車内に引き込んで[[一酸化炭素中毒]]を発生させる移動式のガス殺装置であった。その後[[ラインハルト作戦]]により3つの[[絶滅収容所]]が設置されるが、3つの収容所はいずれも一酸化炭素を用いる固定式のガス室を備えていた{{sfn|芝|2008|p=203}}。一方、[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]では一貫して[[ツィクロンB]](青酸ガスを発生させる殺虫剤の商標)がガス殺の手段として用いられた{{sfn|芝|2008|pp=203-205}}。同収容所には効率的な殺害を行うためにガス室と遺体焼却炉を一体化させた施設「クレマトリウム(Krematorium、[[火葬場]])」が複数建設され、最大で1日8000人に及ぶ殺害が可能であった。
 
=== 人体実験 ===
316 ⟶ 317行目:
 
=== 死の行進 ===
{{main|{{仮リンク|死の行進 (ホロコーストにおける死の行進)|en|Death marches (Holocaust)}}}}
戦争後期になると交通事情は逼迫しており、ソ連軍が迫った収容所にいたユダヤ人たちは、ドイツ勢力圏内の収容所まで徒歩で移動することを強いられた。彼らは休息や栄養も与えられず、悪路を休み無く歩かされた。