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'''ガートルード・マーガレット・ロージアン・ベル'''({{lang-en-short|Gertrude Margaret Lowthian Bell}}, [[大英帝国勲章|{{en|CBE}}]]、[[1868年]][[7月14日]] - [[1926年]][[7月12日]])は、[[イラク王国]]建国の立役者的役割を果たし<ref>Meyer, Karl E.; Brysac, Shareen B. (2008), Kingmakers: The Invention of the Modern Middle East, New York: W.W. Norton & Co., p. 162</ref><ref>Wallach, Janet (1996). Desert Queen. Bantam Doubleday Dell. p. 6. ISBN 978-0-307-74436-4.</ref>、「砂漠の女王」{{en|(Queen of the Desert)}} の異名をとった[[イギリス]]の[[考古学者]]・[[登山家]]・[[紀行作家]]・[[情報員]]。
{{出典の明記|date=2015年1月}}
'''ガートルード・マーガレット・ロージアン・ベル'''({{lang-en-short|Gertrude Margaret Lowthian Bell}}, [[大英帝国勲章|{{en|CBE}}]]、[[1868年]][[7月14日]] - [[1926年]][[7月12日]])は、[[イラク王国]]建国の立役者的役割を果たし、「砂漠の女王」{{en|(Queen of the Desert)}} の異名をとった[[イギリス]]の[[考古学者]]・[[登山家]]・[[紀行作家]]・[[情報員]]。
 
[[File:BellK 218 Gertrude Bell in Iraq in 1909 age 41.jpg|220px|right|thumb|ガートルード・ベル (1909年)]]
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いわゆる「[[フセイン・マクマホン協定]]」だが、戦後のアラブにおける英仏の勢力圏を画定した前出の「サイクス・ピコ協定」の内容と明らかに矛盾しており、この英仏の[[三枚舌外交]]は現在に至るまで尾をひいている。サイクス・ピコ協定の内容を知らないまま、ファイサルは勇躍シリア国王に即位したもののフランスはこれを認めず、追放の憂き目をみていた。チャーチルもベルの案に賛同、本国にベルの案を打電した。
 
統治形態についてはまとまったものの、イラクの領土画定問題に議題が移った途端に紛糾した。[[クルド人]](スンナ派)の北部、アラブ人(スンナ派)の中部、アラブ人(シーア派)の南部、それにペルシャ人、ユダヤ人、キリスト教徒などの地域が複雑に入り組んでいる地域の国境の画定にあたってベルは上記の3つの地域で一国構成されるべきとい持論を曲げなかった。この会議に同席していたロレンスは「クルド人地域のみトルコへのバッファーゾーンとしてイギリスが直接統治を続けるべき」という意見を出した。しかしベルはこれに耳を貸さず、ここにイラクの領土は画定された。ベルはロレンスより20歳も年長で、自分のアラブ情勢関与のキャリアはロレンスなどとは比較にならないと自負していたようだ。ベルはロレンスのペダンティスト的気質を煙たがっていたという側面も研究者の間では指摘されてい。しかし結果的にはロレンスが抱いた危惧は正しった<ref>Howell, Georgina (2008). Gertrude Bell: Queen of the Desert, Shaper of Nations (Paperback ed.). Farrar, Straus and Giroux. ISBN 0-374-53135-8. :413–419</ref><ref>"Letters from Baghdad" documentary (2016) Directors: Sabine Krayenbühl, Zeva Oelbaum.</ref><ref>"Miss Bell's Lines in the Sand", Guardian, 12 March 2003</ref>。
 
ベルは上記の3つの地域で一国を構成されるべきという持論を曲げなかった。この会議に同席していたロレンスは「クルド人地域のみトルコへのバッファーゾーンとしてイギリスが直接統治を続けるべき」という意見を出した。しかしベルはこれに耳を貸さず、ここにイラクの領土は画定された。ベルはロレンスより20歳も年長で、自分のアラブ情勢関与のキャリアはロレンスなどとは比較にならないと自負していたようだ。ベルはロレンスのペダンティスト的気質を煙たがっていたという側面も研究者の間では指摘されている。しかし結果的にはロレンスが抱いた危惧は正しかった。そしてハーシム家の次男でファイサルの兄にあたる[[アブドゥッラー1世|アブドゥッラー]]は[[ヨルダン]]国王に配され、現在のヨルダン王室へと続く事になる。
 
パレスチナについてはイギリスの三枚目の舌こと「[[バルフォア宣言]]」とのからみで結論は先送りされ、この問題はイギリスの頭痛の種となる。以上のようなイラク建国の経緯からイラクは列強の利害とベルの地政学的見解がリンクした結果、{{独自研究範囲|date=2015年1月|建国された人工国家であるという評価が定着する事になる。}}
 
この年の6月、ファイサルはイラクに入り、そのわずか2ヶ月後にイラク国王として即位した。さらにその2年後にはイラク南部とアラビア半島の国境線画定に一区切りをつけた弁務官[[パーシー・コックス|コックス]]がバグダードを去る。イラクの完全な独立はさらに9年後の[[1932年]]の事である。