「崔孝芬」の版間の差分

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[[527年]](孝昌3年)、梁の成景儁が兵を率いて[[彭城]]に迫ると、孝芬は寧朔将軍・員外常侍・兼尚書右丞に任じられ、[[徐州]]行台となって対処にあたった。成景儁が[[泗河|泗水]]をせきとめて彭城を水攻めにしようとしたため、孝芬は[[李叔仁]]や柴集らを派遣して襲撃させ、成景儁を退却に追いこんだ。孝芬は安南将軍・[[光禄大夫]]・兼尚書に任じられ、徐兗行台となった。
 
[[528年]]([[建義 (北魏)|建義]]元年)、[[泰山郡]][[太守]]の[[羊侃]]が反乱を起こして、兗州を包囲しようとした。孝芬は散騎常侍・鎮東将軍・金紫光禄大夫の位を受け、尚書東道行台を兼ね、大都督の[[チョウ遵#子女|刁宣]]とともに救援におもむき、行台の于暉と合流して、羊侃を逆に包囲した。羊侃は包囲を破って梁に亡命した。
 
[[529年]]([[永安 (北魏)|永安]]2年)、[[元コウ|元顥]]が北上してくると、孝芬は[[孝荘帝]]の命を受けて徐州に赴いた。元顥は考城で済陰王[[元暉業]]を捕らえ、勝利に乗じて北進し、その後軍都督の侯暄に梁国城を守らせて後詰めとしていた。孝芬は諸将を率いて侯暄を包囲したが、元顥が救援にやってくるのを恐れて、昼夜を分かたず攻め立てた。5日して侯暄が城を出て包囲を破ろうとしたため、孝芬は侯暄を捕らえて斬った。孝荘帝が洛陽に帰還すると、孝芬は[[西エン州|西兗州]]刺史に任じられた。孝芬は外任での戦役に倦んでいたため、固辞して赴任せず、そのまま太常卿に任じられた。