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→‎原文: 史記・秦始皇本紀
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→‎脚注: 秦始皇本紀
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528行目:
閻樂歸報趙高,趙高乃悉召諸大臣公子,告以誅二世之狀。曰:「秦故王國,始皇君天下,故稱帝。今六國復自立,秦地益小,乃以空名為帝,不可。宜為王如故,便。」立二世之兄子公子嬰為秦王。以黔首葬二世杜南宜春苑中。令子嬰齋,當廟見,受王璽。齋五日,子嬰與其子二人謀曰:「丞相高殺二世望夷宮,恐群臣誅之,乃詳以義立我。我聞趙高乃與楚約,滅秦宗室而王關中。今使我齋見廟,此欲因廟中殺我。我稱病不行,丞相必自來,來則殺之。」高使人請子嬰數輩,子嬰不行,高果自往,曰:「宗廟重事,王柰何不行?」子嬰遂刺殺高於齋宮,三族高家以徇咸陽。子嬰為秦王四十六日,楚將沛公破秦軍入武關,遂至霸上,使人約降子嬰。子嬰即系頸以組,白馬素車,奉天子璽符,降軹道旁。沛公遂入咸陽,封宮室府庫,還軍霸上。居月餘,諸侯兵至,項籍為從長,殺子嬰及秦諸公子宗族。遂屠咸陽,燒其宮室,虜其子女,收其珍寶貨財,諸侯共分之。滅秦之後,各分其地為三,名曰雍王、塞王、翟王,號曰三秦。項羽為西楚霸王,主命分天下王諸侯,秦竟滅矣。後五年,天下定於漢。
 
== 後継争い脚注 ==
=== 姜無詭の優勢と混乱注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
桓公は、紀元前643年に亡くなった。[[管子]]や[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]のいくつかの史書によれば、共謀する4人の役人によって餓死したと記載されている{{sfnp|Rickett|2001|pp=387, 388, 431, 432}}{{sfnp|Sima Qian|2006|p=80}}。然し、これらの事件に関するその他の有力な情報源、たとえば[[春秋左氏伝]]<ref name="duke xi" />や[[史記]]の記録などは、これについて言及していない{{sfnp|Sima Qian|2006|pp=80, 81}}。桓公が死んだため、宮廷での後継争いはエスカレートした。後継者である姜昭と、公位継承権の主張者の姜無詭・姜潘・姜商人・姜元・姜雍の派閥は、互いに武装し、首都{{仮リンク|臨シ故城|label=臨淄|zh|临淄齐国故城|en|Ancient Linzi}}は武力的な混乱に陥いった。しかし、姜無詭は宮廷に置いて、[[易牙]]と[[豎チョウ|豎刁]]という2人の強力な支持者を有していた<ref name="duke xi" />。か「'''管子'''」は、この2人が桓公を殺害した共謀者の一人であると主張している{{sfnp|Rickett|2001|p=388}}。易牙と豎刁が率いる姜無詭の派閥がなんとか宮殿を支配し、捕らえることができるすべての公位継承者を殺害した。他の公位継承者たちは自らの命のために逃亡した<ref name="duke xi" />{{sfnp|Rickett|2001|p=388}}。[[紀元前643年]][[11月11日]]、姜無詭は斉の新しい公爵として即位した(斉侯無詭)。その後、ついに故・桓公の墓葬が行われた。さまざまな説明によると、桓公の死体は、後継者争いのために7日から3か月の間、寝室に無人で安置されていて、すでに腐敗し始めていた{{Refnest|group="注"|「'''[[管子]]'''」は、桓公の死体は7日{{sfnp|Rickett|2001|p=388}} または11日間腐敗したままだったと記載されている{{sfnp|Rickett|2001|p=432}}。[[春秋左氏伝]]と[[史記]]の記載では67日となっているが{{sfnp|Sima Qian|2006|p=81}}<ref name="duke xi" />、[[韓非子]]では3か月と記載している。どちらの日数が正しかったとしても、歴史家たちは、日中に埋葬するために、死体を準備することが慣習であると指摘している。しかし、桓公の場合は儀式が夜に行われ、「状況が異常であることを明確に示している」{{sfnp|Sima Qian|2006|p=81}}。}}。
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
しかし、姜無詭の即位にもかかわらず、統治は盤石と言うにはほど遠いことが証明された。姜潘・姜商人・姜元・姜雍の支持者の勢力も大規模なままであったが、最大の脅威を与えたのは[[宋 (春秋)|宋]]の[[襄公 (宋)|襄公]]の元に亡命して援助を求めた姜昭であった。宋の襄公は宋を中心として、[[曹 (春秋)|曹]]・[[衛]]・[[チュウ (春秋)|邾]]と同盟を組んだ。襄公と姜昭が率いるこれらの諸侯の同盟軍は、[[紀元前642年]][[3月]]に斉を侵攻し始めた。防衛側の斉侯無詭は、侵略者から斉侯無詭を助けるために遠征軍を派遣した[[魯]]の支持を得た。しかし結局、戦場での勝敗が決定される前に、斉侯無詭は殺害された。宋を中心とする侵略を斉の人々は恐れ、斉侯無詭に対して反乱を起こし殺害させ、姜昭を新しい公爵として迎え入れた<ref name="duke xi" />{{sfnp|Sima Qian|2006|p=81}}。
{{Wikisource|史記/卷006|秦始皇本紀}}
{{DEFAULTSORT:しんしこうほんき}}
 
<!-- [[Category:秦漢の書籍]]
=== 甗(げん)の戦い ===
[[Category:紀元前1世紀の書籍]]
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[[Category:紀元前1世紀の歴史書]]
Location map+|China Shandong|width=300|float=right|caption=斉の首都{{仮リンク|臨シ故城|label=臨淄|zh|临淄齐国故城|en|Ancient Linzi}}と戦場となった[[歴城区|甗]]の位置を示す[[山東省]]の地図
[[Category:始皇帝]]
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[[Category:史記]] -->
{{Location map~|China Shandong|lat=36.6882|long=117.0816|position=left |label_size=75 |label=[[歴城区|甗]]}}
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}}
 
斉侯無詭の死の情報が広まるにつれて、姜昭の公位継承が避けられなくなったと思われたため、曹・衛・邾は斉から軍を撤退させた。しかし実際には、姜昭の確実な公位継承者としての地位はまだ確保されていなかった。姜昭が即位しようとしたとき、姜潘・姜商人・姜元・姜雍は支持者とともに臨淄に戻り、姜昭の派閥を攻撃した。したがって、姜昭の兄弟が宮廷を支配し、姜昭に対して同盟を結んだ。姜昭は再び臨淄から逃げることを余儀なくされた。姜昭はまだ宋軍と共に斉に残っていた宋の襄公の元に亡命し、援助を求めた。一方、姜潘・姜商人・姜元・姜雍の連合軍は、斉から宋の軍隊を追い払うために臨淄から打って出た。甗(げん、現在の山東省[[済南市]][[歴城区]])で2軍は相対し、宋軍が決定的な勝利を収めた。姜潘・姜商人・姜元・姜雍は斉から逃亡し、宋の襄公は臨淄で姜昭を即位させた。それ以降、姜昭は斉の孝公と呼ばれるようになった。後継者争いは一旦の収束を迎えたため、宋の軍隊は帰国した<ref name="duke xi" />{{sfnp|Sima Qian|2006|p=81}}。
 
しかしながらも、姜潘・姜商人・姜元・姜雍らの支持者は依然として活動的であり、新たに即位した孝公に対して陰謀を企て続けた。甗での敗戦後まもなく、姜潘・姜商人・姜元・姜雍を援助するために[[北狄]]は斉を侵略し、荒廃させた。しかしこれは孝公の勢力を弱めるには不十分であり<ref name="duke xi" />、斉は再び安定した。北狄の攻撃の後には、斉の国内は落ち着いた状態になり、故桓公は死後数か月で適切な儀式を行われ、最終的に埋葬された<ref name="duke xi" />{{sfnp|Sima Qian|2006|p=81}}。
 
== 余波 ==