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| 渾名 = ミスター単縦陣<ref>伊藤正徳『大海軍を想う』光人社</ref>
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[[File:Kozo Tsuboi.jpg|thumb|200px|坪井航三]]
'''坪井 航三'''(つぼい こうぞう、[[天保]]14年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]([[1843年]][[4月6日]]) - [[明治]]31年([[1898年]])[[2月1日]])は、日本の[[幕末武士]]から明治期の([[長州藩]]士)、[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]。日本海軍での最終階級は海軍[[中将]]。勲等は[[従三位]][[勲二等]][[功三級]]、[[男爵]]。幼名・信次郎。航三他に則光。ミスター[[単縦陣]]あだを持つも使用していた
 
== 経歴 ==
1843年4月6日、[[周防国]][[三田尻]](現・[[山口県]][[防府市]])の出身。に長州藩・原顕道の二男として生まれ、藩医・[[る<ref>高橋文雄『坪井信友|坪井信友(二世信道)]]の養子となる。20歳のとき[[庚申丸]]に乗り、外国船の砲撃に参加する。[[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]]士として[[戊辰戦争]]に従軍。[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の発足後は[[東艦|甲鉄艦]]副長を務めた航三研究序説』</ref>
 
1863年、長州藩の[[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]]に入り、[[戊辰戦争]]に参加。その後、海軍の道を進むが、1864年の四国連合艦隊による下関砲台攻撃を機に海軍修行を志したとする意見もある<ref>高橋文雄『坪井航三研究序説』</ref>。
[[1871年]]([[明治]]4年)米国海軍{{仮リンク|アジア艦隊|en|Asiatic Squadron|}}司令長官{{仮リンク|ジョン・ロジャーズ (海軍軍人)|label=ジョン・ロジャーズ|en|John Rodgers (American Civil War naval officer)|}}の下で、旗艦{{仮リンク|コロラド (艦船)|label=コロラド|en|USS Colorado (1856)|}}で乗艦実習。[[1872年]]([[明治]]5年)、離任し帰国するロジェーズ少将に従い渡米し、[[ワシントンD.C.]]にあるコロンビアン・カレッジ付属中学校(現在の[[ジョージ・ワシントン大学]])に学んだ。[[1873年]]([[明治]]6年)12月の官費海外留学生の一斉帰国命令に従い、[[1874年]]([[明治]]7年)7月、帰国した。帰国後、[[第一丁卯]]艦長となる。
 
1969年、[[坪井信友|坪井信友(二世信道)]]の養子になることを藩主に命じられ、坪井姓を名乗る。坪井家は[[坪井信道]]が1838年に長州藩士の侍医になった時から長州藩との関係がある家柄である<ref>高橋文雄『坪井航三研究序説』</ref>。[[1871年]]6月、海軍[[大尉]]、「甲鉄艦」副長に就任。
[[日清戦争]]時、第一遊撃隊司令官を務める。[[単縦陣]]戦法を唱え、[[豊島沖海戦]]、[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]に勝利。とくに黄海海戦では単縦陣の先頭に立って指揮し、優速を利して<!-- とっさに煙のトリックを思いつき ←ここは少々意味不明。清国艦隊の発砲煙に隠れての意味? -->[[北洋艦隊]]の背後に回りこみ、海戦の主導権を握ることに成功する。
 
[[1871年]]([[明治]]4年)9月、横浜で米国海軍東洋艦隊{{仮リンク|アジア艦隊|en|Asiatic Squadron|}}司令長官{{仮リンク|ジョン・ロジャーズ (海軍軍人)|label=ジョン・ロジャーズ|en|John Rodgers (American Civil War naval officer)|}}下で、旗艦{{仮リンク|コロラド (艦船)|label=コロラド|en|USS Colorado (1856)|}}り組み、中国の沿岸を巡航し、地訓練を積む。[[1872年]]([[明治]]5年)4月離任しコロラド号の帰国するに際し、ロジェーズ少将に従い渡米し、[[ワシントンD.C.]]にあるコロンビアン・カレッジ付属中学校(現在の[[ジョージ・ワシントン大学]])に学んだ<ref>高橋文雄『坪井航三研究序説』</ref>。[[18731874年]]([[明治]]67)12)7官費海外留学生の一斉帰国命令(1873年12月に発令)に従い、帰国。[[1874年]]8月、海軍[[明治少佐]]7年)7月帰国した。帰国後、[[第一丁卯]]艦長となるに就任
[[日清戦争]]が始まるまで日本海軍は連日単縦陣と[[横陣]]の二手に分け[[模擬海戦]]を行ったが、坪井の主張する単縦陣がいつも勝った。しかし当時横陣を有利とする主張も強く、単縦陣で実戦に挑むのは勇気がいることだった。彼は単縦陣にこだわり、率いる第一遊撃隊は戦闘のみでなく偵察、航行の時も単縦陣の陣系を崩さなかった。
 
[[1890年]]9月、海軍[[少将]]、佐世保軍港司令官に就任。[[1892年]]12月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校長]]に就任。[[1893年]]12月、[[海軍大学校|海軍大学校長]]に就任。
黄海海戦で[[清国]]海軍の軍艦に乗り、日本海軍の動きを見た{{仮リンク|フィロ・マクギフィン|en|Philo McGiffin|}}米海軍少佐は「日本海軍は終始整然と単縦陣を守り、快速を利して有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値する。」と日本海軍の単縦陣を高く評価した。以後、単縦陣は海戦のセオリーとなる。
 
[[1894年]]6月、[[常備艦隊]]司令官(第1遊撃隊司令官)に就任。1894年7月、[[日清戦争]]が開始。
 
坪井は従来からいかなる場合にも自分は[[単縦陣]]で戦うと主張していたので、坪井自身に「単縦陣」のあだ名が付いていた<ref>伊藤正徳『大海軍を想う』光人社</ref>
日清戦争では、開戦時の[[豊島沖海戦]]や9月の[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]に参加し、単縦陣戦法で戦い、勝利した。黄海海戦では単縦陣の先頭に旗艦を配置して指揮し、[[北洋艦隊]]の背後に回りこみ、海戦の主導権を握ることに成功した。黄海海戦で[[清国]]海軍の軍艦に乗り、日本海軍の動きを見た{{仮リンク|フィロ・マクギフィン|en|Philo McGiffin|}}米海軍少佐は「日本海軍は終始整然と単縦陣を守り、快速を利して有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値する。」と日本海軍の単縦陣を高くた。以後、単縦陣は海戦のセオリーとなている。
 
12月、[[旅順要港部|旅順口根拠地]]司令長官に就任。1895年4月、日清戦争が終結。
 
== 年譜 ==
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*[[霞会館]]華族家系大成編輯委員会『[[平成新修旧華族家系大成]]』下巻、霞会館、1996年。
* 高橋文雄「[http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200203/07.pdf 坪井航三研究序説---米国留学先の解明を中心にして]」防衛省防衛研究所戦史研究年報5号、2002年3月。
 
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