「スラカルタ王宮 (クラトン)」の版間の差分

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[[1740年]]10月の[[オランダ東インド会社]]({{lang-nl-short|Verenigde Oost-Indische Compagnie}}、略称: VOC)による[[バタヴィア]](後の首都[[ジャカルタ]])の[[華僑虐殺事件 (バタヴィア)|華僑虐殺事件]]に始まる{{仮リンク|ジャワ戦争 (1741-1743年)|en|Java War (1741–1743)|label=華僑騒乱}}により、[[1745年]]<ref name=dohosha_241>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、241頁</ref>、[[マタラム王国]]([[1570年代]]<ref>[[#Tomio|冨尾 (2015)]]、118-119頁</ref>〈[[1578年]]頃<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、407頁</ref><ref>[[#Tamura|田村 (2014)]]、138頁</ref>〉-[[1755年]])の王{{仮リンク|パクブォノ2世|en|Pakubuwono II}}(パク・ブウォノ2世<ref group="注">パク・ブウォノ (Pakoe Boewana) は、「地球・宇宙 (''buwana''<!--SEAlang Library Javanese-->) の[[釘]] (''paku''<!--末永『インドネシア語辞典』、SEAlang Library Javanese-->)」の意。<!--田村 (2014)--></ref>、在位[[1726年|1726]]-[[1749年]]<ref name=dohosha_408>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、408頁</ref>)は、動乱により荒廃した王都{{仮リンク|カルタスラ|en|Kartosuro}}より12キロメートル東のソロ([[スラカルタ]]<ref group="注">Surakarta は、王家の名称としてはジャワ語で「スロカルト」といわれ、地域や都市名としてはインドネシア語で「スラカルタ」と呼ばれる。</ref><ref name=Tamura_139 />)に移り、翌[[1746年]]2月に{{仮リンク|スラカルタ王宮|id|Keraton Surakarta Hadiningrat}}を構築した<ref>[[#Tomio|冨尾 (2015)]]、141-143頁</ref>。この王宮の完成に伴い、ソロに移された王都は「スロカルト・ハディニングラート」と命名された。
 
1746年5月、パクブォノ2世の弟パンゲラン・マンクブミ(Pangeran Mangkubumi、後の{{仮リンク|ハメンクブウォノ1世|en|Hamengkubuwono I}}スルタン・ハムンク・ブウォノ1世<ref name=dohosha_245>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、245頁</ref>)が、スラカルタより[[ジョグジャカルタ市|ジョグジャカルタ]]に移り、王およびオランダに対する反乱を起こした。そして1749年末、パクブォノ2世の死去により、王子が{{仮リンク|パクブォノ3世|en|Pakubuwono III}}(パク・ブウォノ3世、在位1749-[[1788年]]<ref name=dohosha_408 />)として王位を継承するうちに{{仮リンク|第3次ジャワ継承戦争|en|Third Javanese War of Succession}}が起こった。マンクブミ優位のもとに、1755年2月13日、[[オランダ東インド会社]]({{lang-nl-short|Verenigde Oost-Indische Compagnie}}、略称: VOC)との間に{{仮リンク|ギアンティ条約|en|Treaty of Giyanti}}が締結され<ref>[[#Tomio|冨尾 (2015)]]、144-145頁</ref>、マタラム王国はススフナン家(スラカルタ侯国)と{{仮リンク|スルタン家|en|Yogyakarta Sultanate}}(ジョグジャカルタ侯国)に分割された<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、125頁</ref>。
 
今日に見られるスラカルタ王宮は、創建された1744-1745年当時に建てられたものではなく、かつての基本的な構成の上にさまざまな建設が段階的になされている。王宮の建設はパクブォノ2世を継いだパクブォノ3世より{{仮リンク|パクブォノ10世|en|Pakubuwono X}}(パク・ブウォノ10世、在位[[1893年|1893]]-[[1939年]]<ref name=dohosha_408 />)まで行なわれた。その間、スラカルタ王宮はオランダの植民地支配に対して抵抗した。[[オランダ領東インド]]の覇権のもと、{{仮リンク|パクブォノ6世|en|Pakubuwono VI}}(パク・ブウォノ6世、在位[[1823年|1823]]-[[1830年]]<ref name=dohosha_408 />)ならびにパクブォノ10世は、その抗争において主要な役を果たしたことで知られる。王宮は[[1975年|1975]]-[[1976年]]に修復されたが<ref name=cagarbudaya />、[[1985年]]に王宮複合体は大火に見舞われ<ref name=karatonsurakarta>{{Cite web |url=https://karatonsurakarta.com/?page_id=16 |title=Pendopo ageng |website=KaratonSurakarta.com |language=id |accessdate=2020-07-29}}</ref><ref>{{Cite book |last=Sholikhin |first=Muhammad |title=Kanjeng Ratu Kidul dalam perspektif Islam Jawa |year=2009 |publisher=penerbit NARASI |language=id |isbn=979-168-171-6 |page=123}}</ref>、その後、被災した建物(ササナ・スワカ〈''Sasana Sewaka''〉や<ref>{{Cite book |last=Widayat |first=Rahmanu |title=Ragam Hias Bangunan Keraton Surakarta |publisher=Dwi - Quantum |language=id |page=14}}</ref>ササナ・アンドラウィナ〈''Sasana Aandrawina''<!--Handrawina-->〉)が修復されている<ref name=cagarbudaya />。また、[[2006年]]には、中部ジャワ州の事業により北カマンドゥンガンなどいくつかが修復された<ref name=cagarbudaya />。