「エレーナ・グロ」の版間の差分

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1908年から[[1910年]]にかけて、グロとマチューシンは、ロシアの立体未来派の新興団体の構成員であった。「ブジェトリャーニン(未来人)」を自称するダヴィド・ブリュリーク、ワシリー・カメンスキー、ヴェリミール・フレブニコフらは、サンクト・ペテルブルクのペソチナヤ通りにあるマチューシンの家を拠点とし、芸術と文学について議論するための中心的な出会いの場となった。出版社「クレーン」がそこに設立され、1910年に最初の立体未来派コレクション『裁判官の檻』が出版され、グロも共作者の一人として参加した<ref name="poesia"/>。一方で、1909年と1910年には、ニコライ・イワノヴィチ・クルビンが率いる印象派グループの展覧会に参加。また、 1910年から[[1913年]]にかけては、左派「青年連合」などの展覧会に積極的に出品した。[[1912年]]に、グロは、同じ名前の劇、著者によるいくつかの断片とイラストを含む2番目の本『秋の夢』を公開。これはイヴァーノフによる好評を得た。この彼女の最も知られた書籍は、主に詩で構成されているが、日記の断片を含んでいる。
 
グロは、1913年にフィンランド大公国にあったカレリア地峡のウーシキルコの町にあった彼女の[[ダーチャ]]で白血病で死去した<ref group="注釈">現在ではレニングラード地域のヴィボルク地区にあるポリャニー村となっている。</ref>。人々は彼女をフィンランドの墓地に埋めた。墓は今では所在不明である。死の前夜に、彼女は「貧しい騎士」をほぼ完成していた同年、未来派はコレクション『3』を彼女の追悼に当てた。この本には、フレブニコフ、[[アレクセイ・クルシェニクチョーヌイフ]]の詩、およびグロ自身の没後出版物が含まれている。幾つかの詩と2つの散文作品が、『3』および雑誌『青年団』の中で同年中に発表されることとなった。[[1914年]]には、『空の小さなラクダ』が出版された。グロの作品は、未来派に否定的な態度をとっていた批評家など、さまざまな批評家からも好感を以て迎え入れられた。たとえば、詩人であり批評家であったウラジスラフ・フェリツィアノヴィチ・ホダセーヴィチなどは、グロを他の未来派と別論して賞賛した。 1910年代の若いサンクト・ペテルブルクの詩人の間では、グロの崇拝者があり、「砂の家」と呼ばれる彼女に捧げられた出版社が存在した。一方、「クレーン」も存続していた。
 
== 作品 ==