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[[211年]]、[[後漢]]朝廷から都郷侯に封じられたのを皮切りに、[[217年]]には魯陽侯となった。魏帝国成立後は[[下邳郡|下邳]]王([[222年]])に昇格したが、[[224年]]に曹丕(文帝)が諸王をすべて県王に下すとの詔勅を発布したため、これにより[[単県|単父]]県王とされた(詔勅の内容については曹據伝を参照)。[[曹叡]](明帝)の時代、[[232年]]にこの命令が変更され、[[燕国|燕]]王に封じられている。
 
甥である曹叡とは、年齢が近いこともあって、曹叡の皇太子時代から親友の仲であり、曹叡の時代には皇族の中でも特に恩寵を受けていた。[[235年]]には入朝した。[[237年]]に[[ギョウ|鄴]]へ帰還したが、[[238年]]に再び中央へ召し出された。
 
[[239年]]に曹叡が病に倒れると、曹宇は見舞いのために連日訪れた(明帝紀注が引く『漢晋春秋』)。曹叡は曹宇を[[大将軍]]にして、[[曹肇]]・[[曹爽]]・[[夏侯献]]・[[秦朗]]ら魏の[[宗室]]や閣僚らと共に、[[猶子]][[曹芳]]を補佐させようとした(明帝紀)。しかし曹宇は謙虚な性格であったため、これを固辞した。これを知った[[劉放]]と[[孫資]]は、曹宇が大任を果たせないことを自覚していると指摘し、曹宇に替えて曹爽・[[司馬懿]]を後見とするよう勧めた(劉放伝)。曹肇らと劉放・孫資らのどちらにするかで、曹叡の意志は二転三転したが、結局曹宇達は免職となり、中央から遠ざけられてしまった(明帝紀・劉放伝)<ref>明帝紀注が引く『漢晋春秋』では、曹宇は明帝の側に常に付き添っていたが、曹宇が一時明帝の側から退いて曹肇と相談している隙に、重臣の劉放と孫資は密かに明帝に目通りし、文帝の遺命に藩王が政治に関与することは許さないというものがあると進言し、曹爽を後見とするよう熱心に勧めたとある。これは劉放・孫資が曹肇達と政治的に敵対しており、自身の権限が損なわれるのを憂いた側面もあったからだといわれている。</ref>。政治的な権限からは遠ざけられたが、以後も何度か加増を受けた。