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8月、石韜は夜に群臣と共に東明観において宴を行い、仏精舍にて宿泊した。石宣は楊柸らに命じて獼猴梯(細長い梯子)を掛けて侵入させ、石韜を殺害させると、彼らはその刀箭を置いて立ち去った。
 
夜が明けると、石宣はこの事を上奏した。石虎は驚愕して卒倒し、しばらくしてから意識を取り戻した。その後、宮殿を出て[[喪]]に臨もうとしたが、[[司空]][[李農]]はこれを諫めて「秦公(石韜)を害した者は未だ判明しておりません。もし賊がまだ京師([[ギョウ|鄴]])に居るのであれば、軽々しく出歩くべきではありません」と諫めたので、石虎は自ら喪事に臨むのを中止し、警戒を厳重にしてから太武殿において哀悼した。
 
石宣は素車に乗り込んで千人を従え、石韜の喪に臨んだものの、涙を流す事なく「呵呵」と言うのみであり、衾を開いてその屍を見ると、大笑いしてから去った。また、大将軍記室参軍[[鄭靖]]・[[尹武]]らを捕らえると、彼らにその罪を着せた。だが、石虎は石韜を殺したのは石宣ではないかと疑っており、彼を召し出して真偽を正そうとしたが、警戒して入ってこないのではと考え、母の杜珠が悲しみの余り危篤に陥ったと偽り、石宣を招聘した。石宣は疑う事なく中宮に入ると、石虎はこれを抑留した。