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[[342年]]11月、秦公[[石韜]]は石虎から寵愛されていたので、太子[[石宣]]はこれを妬んでいた。五兵尚書を領していた張離は石宣に媚びを売ろうと思って「今、諸侯の吏兵は限度を超えています。少しずつ減らしていくべきです。これをもって根本を安泰させるのです」と勧めた。石宣は張離に命じて「秦・燕・義陽・楽平の四公は吏197人、帳下兵200人を置く事とし、それ以下の者は3分の1を置く事を認める。これにより余った兵5万は全て東宮に配備するものとする」と奏させた。これにより諸公は恨み、溝がますます広がった。
 
[[345年]]、[[関中]]の統治を任されていた義陽公[[石鑑]](石宣の異母兄弟)は、重い労役や税を課していたので人心を失っており、さらに文武官で長髮な者の髪を抜いて冠纓を作るなど奇行を為した。これを聞いた石虎は激怒し、張離を征西左長史・龍驤将軍・雍州刺史に任じて調査を命じた。張離が関中に赴いて調べた結果、これらが事実であった事が判明すると、石虎は石鑑を更迭して[[ギョウ|鄴]]に呼び戻し、石鑑を唆した李松を逮捕した。
 
[[349年]][[4月]]、石虎が逝去し、[[石世]]が後を継いだが、まだ幼かった事から母の[[劉皇后 (石虎)|劉皇太后]]と[[太保]][[張豺]]が政権を握った。張離は鎮軍大将軍・監中外諸軍事に任じられ、張豺の副官となった。