「三浦義村」の版間の差分

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[[建暦]]3年([[1213年]])には従兄弟で[[侍所]]所司であった[[和田義盛]]と[[北条氏]]打倒で結ぶが、これを直前で裏切って[[北条義時]]に義盛の挙兵を告げ、義盛は敗れて和田氏は滅ぶ([[和田合戦]])。大きな策謀には関わっており、幕政での地位を向上させることに腐心している。[[建保]]6年([[1218年]])、侍所所司に就任した。
 
建保7年([[1219年]])[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]、3代将軍・[[源実朝]]が[[公暁]]([[源頼家]]の子)に暗殺される。公暁は義村に対し「我こそは東国の大将軍である。その準備をせよ」という書状を持った使いを出し、義村は「お迎えの使者を差し上げます」と偽って討手を差し向けた。待ちきれなくなった公暁が義村宅に行こうと裏山に登ったところで討手に遭遇し、激しく戦って振り払い、義村宅の塀を乗り越えようとした所を殺害された。この事件の真相は明らかではないが、公暁の[[乳母]]は義村の妻であり、子の[[三浦光村|駒若丸]]は公暁の門弟であるなど、義村との縁が深い事から、事件は公暁をそそのかして実朝と義時を同時に葬ろうとした義村が黒幕であるとする説や{{Efn|義村黒幕説は、[[永井路子]]が小説『[[炎環]]』で描いて以来注目され<ref>{{Cite book|和書|author=永井路子|title=炎環|publiserpublisher=光風社|year=1964}}</ref>、[[石井進 (歴史学者)|石井進]]がその可能性を認めた<ref>{{Cite book|和書|author=石井進|series=日本の歴史7|title=鎌倉幕府|publisher=中央公論社|year=1965}}</ref>ことで浮上した。他に同説を支持する研究者には、[[大山喬平]]<ref>{{Cite book|和書|author=大山喬平|series=日本の歴史9|title=鎌倉幕府|publisher=小学館|year=1974}}</ref>、[[上横手雅敬]]<ref>{{Citation|和書|author=上横手雅敬|chapter=承久の乱|editor=安田元久|editor-link=安田元久|title=古文書の語る日本史3 鎌倉|publisher=筑摩書房|year=1990}}</ref>などがいる。}}、将軍親裁を強め、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]との連携を目指した実朝に対し、義時と義村が手を結んで実朝および後鳥羽と実朝を結びつける後鳥羽の近臣[[源仲章]]を排除したとする説{{Efn|北条・三浦ら鎌倉御家人共謀説は[[五味文彦]]が提唱した<ref>{{Cite journal|和書|author=五味文彦|title=源実朝-将軍独裁の崩壊|journal=歴史公論|year=1979}}</ref>。}}もある。公暁討伐の功により、同年[[駿河国|駿河守]]に[[任官]]した。
 
=== 承久の乱・伊賀氏の変 ===
=== 注釈 ===
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<references {{Reflist|group="注釈" />}}
=== 出典 ===
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