「長州征討」の版間の差分

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16日、萩城に毛利将監以下の諸士が登城した。敬親に拝謁した一同は諸隊を武力で征討する不可を上申した。正義派にも俗論党にも組しない中立派は「鎮静会議員」と称し運動を始めた。一方で、元純は諸隊との休戦工作のため[[1月21日 (旧暦)|21日]]に萩と山口を結ぶ往還の集落[[佐々並]]において諸隊と協議した。元純は双方が萩と山口へ撤退する方針で打診したが諸隊は拒否。[[1月23日 (旧暦)|23日]]に萩から討伐軍に対して撤退命令が出され、[[1月28日 (旧暦)|28日]]までの休戦協定が結ばれて会見は終わった。
 
ところが[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]、山口を訪れた鎮静会議員3名が帰路の明木で俗論党(選鋒隊)により暗殺されると、諸隊の仕業であると誣告する俗論党への排斥運動は高まり、一方で処罰された正義派への大赦が続いた。[[2月14日 (旧暦)|14日]]、奇兵隊、八幡隊は[[東光寺]]に、御盾隊は[[大谷]]に入り、[[2月15日 (旧暦)|15日]]には[[玉江]]へ遊撃隊が入り、[[癸亥丸]]は海岸に近づいて再び空砲を鳴らし続けた。14日、椋梨藤太は萩から逃亡したが津和野で捕縛され俗論党は崩壊、長州藩の内訌戦は正義派の勝利に終わった。
 
内乱の最中の[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]、征長軍は解兵令を発したが、[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]に幕閣は徳川慶勝へ藩主父子及び五卿を江戸まで拘引せよとの命令書を与えた。命令書を受け取った慶勝は「征長について将軍から全権を委任され、降伏条件と解兵は総督府を通じて幕府へ報告した。命令の実行は解兵した現在では不可能である」と断って、その上で処罰をうけるなら受け入れると回答した。幕府は長州処分は江戸で行うため慶勝は京都に入らず上府するように命令したが、朝廷も慶勝へ上洛せよとの命令を出した。板ばさみのため、1月16日に大坂に着いた慶勝は所労と称して滞坂することにした。