「伊藤祐民」の版間の差分

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[[1878年]]([[明治]]11年)、伊藤次郎左衞門家14代当主・[[伊藤祐昌|伊藤次郎左衛門祐昌]]の四男として生まれた。母親は[[岡谷惣助 (9代目)]]の妹・みつ<ref name=jinji8>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-1458 伊藤次郞左衞門]『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]</ref><ref>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-3397 岡谷惣助 ]『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]</ref>。幼名は'''守松'''。父・祐昌には4人の息子が居たが、長男の文次郎、次男の千次郎は夭逝。三男・宮松とは年子の兄弟だったが幼少期は身体が弱かった。一方でいたずらっ子でもあり、宮松を池に突き落としたこともあったという。
 
[[1893年]](明治26年)明倫小学校高等部卒業の後は当時の商家の倣いで進学せず、自宅で個人教授を受けた。教授となったのは[[雅楽]]の[[恒川重光]]、[[龍笛]]の[[吉田種彦]]・[[山井基万]]、[[謡曲]]の[[尾崎浪音]]、[[茶道]]の[[松尾宗幽]]([[松尾流]]八代)、[[水彩画]]の[[野崎華年]]、[[狂言]]の五代目[[河村武七]]、[[漢文]]の[[増田白水]]、[[漢学]]の[[井上雅川]]、[[弓道]]の[[星野茂則|星野勘左衛門]]などで、父や祖父からも茶道、和歌、[[国文学]]、雅楽、[[書道]]などの手解きを受けている。17歳の時に兄・宮松が[[脚気衝心]]で急逝したため伊藤家の跡継ぎとなった。[[1901年]](明治34年)、親戚でもあった岡谷惣助 (9代目)の七女・貞(てい)と結婚。貞はいとこにあたり、その弟に[[岡谷惣助 (10代目)]]。1903年に生まれた長女の錥(いく)は長じたのち[[子爵]]の[[交野政邁]]の妻となった<ref name=jinji8/>。
 
家業に携わるようになった祐民は、[[1907年]](明治40年)に上野のいとう松坂屋(後の松坂屋上野店)が新装開店した際に[[江戸時代]]から続けられてきた座売りを改め、商品を棚に陳列しての立ち売り形式とした。また、[[1909年]](明治42年)8月に[[渋沢栄一]]を団長として行われた'''渡米実業団'''に[[伊藤銀行]]取締役として参加した際に見学したアメリカの[[デパート]]に大きな影響を受け、[[1910年]]には[[株式会社]]いとう呉服店を創立。[[第10回関西府県連合共進会]]の開催に先駆けて新たな店舗を名古屋市[[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄町]]に3階建て[[洋館]]形式のデパートとして開店した。この際には先にデパートとして開業していた[[三越]]の専務・[[日比翁助]]に会って直に教えを請うたという。