「ジョージ・スティーヴンス」の版間の差分

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胃薬 (会話 | 投稿記録)
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[[カリフォルニア州]][[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]生まれ。[[1921年]]にアシスタント・カメラマンとして映画入り、[[1927年]]、[[ハル・ローチ]]の元で極楽コンビこと[[ローレル&ハーディ]]の短編映画を手がける。[[1932年]]に[[ユニヴァーサル]]で助監督に昇格し、のちに[[RKO]]に移籍する。
 
[[1933年]]に念願の監督デビューを果たす。[[1935年]]、[[キャサリン・ヘプバーン]]主演の『乙女よ嘆くな』がアカデミー作品賞にノミネートされ、出世作なる。以降は[[フレッド・アステア]]と[[ジンジャー・ロジャース]]の名コンビを配した『有頂天時代』、キャサリン・ヘプバーンと[[スペンサー・トレイシー]]が最初に共演した『女性No.1』、[[ケーリー・グラント]]主演で冒険活劇『ガンガ・ディン』や人情喜劇『愛のアルバム』などジャンルを問わず娯楽作を世に送り出し、いずれも大ヒットした。また1942年の『希望の降る町』と1943年の『The More the Merrier』でアカデミー作品賞に連続でノミネートされた。
 
戦前は娯楽映画を中心に撮ったが、[[第二次世界大戦]]中は[[アメリカ陸軍]]の映画斑に所属して戦意高揚映画の製作にあたった。[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]では連合軍の進撃に随行し、なかでも[[ダッハウ強制収容所]]では解放直後から現場の記録撮影に従事し、[[ニュルンベルク裁判]]ではそのフィルムで制作された映画が証拠として上映された。