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'''メトロポリタン・ディストリクト鉄道'''(メトロポリタン・ディストリクトてつどう、{{Lang|en|Metropolitan District Railway}})、通称'''ディストリクト鉄道'''は、[[1868年]]から[[1933年]]までロンドンで運行されていた旅客鉄道である。ロンドンの地下鉄であるインナー・サークル([[サークル線]])を完成させる目的で[[1864年]]に設立され、最初の区間は[[ガス灯]]で照明された木造客車を[[蒸気機関車]]が牽引する形で開通した。ディストリクト鉄道では、[[1871年]]に自社で列車を運行するようになるまで、[[メトロポリタン鉄道]]が全列車の運行を担当していた。まもなく、[[アールズ・コート駅|アールズコート]]から[[フラム]]、[[リッチモンド (ロンドン)|リッチモンド]]、[[イーリング]]、[[ハウンズロー]]へと西側へ延長された。インナー・サークルが完成し[[ホワイトチャペル]]まで1884年に到達した後、ロンドン東部の[[アップミンスター]]まで[[1902年]]に延長された。
 
20世紀初頭に[[鉄道の電化|電化]]の費用を調達するために、アメリカの資本家{{仮リンク|[[チャールズ・ヤーキス|en|Charles Yerkes}}]]が買収して、彼の傘下の[[ロンドン地下電気鉄道]]の一部となった。[[1905年]]に電化され、その年末からすべての列車が[[電車]]で運行されるようになった。[[1933年]][[7月1日]]に、ディストリクト鉄道とその他のロンドン地下電気鉄道の各社はメトロポリタン鉄道および各路面電車・バス運営会社などと合併して[[ロンドン旅客運輸公社]]となった。
 
かつてディストリクト鉄道だった路線と駅は、現在の[[ロンドン地下鉄]]([[ディストリクト線]]、[[ピカデリー線]]、[[サークル線]])となっている。
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20世紀の初頭になると、ディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道ではロンドン中心部において、新しく建設された電気運転の地下深くを走る地下鉄「チューブ」との競争がますます激しくなってきた。1890年に[[シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道]]が開通すると、大きな成功を収めていた。1900年に[[セントラル・ロンドン鉄道]]がシェパーズ・ブッシュとシティの間で2ペンスの均一運賃で開通すると、ディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は合わせて400万人の旅客を1899年下半期から1900年下半期にかけて失った{{sfn|Jackson|1986|pp=158–160}}。[[蒸気機関車]]で運転していたことで、駅も客車も煙に覆われており、旅客からとても不評を買っており{{#tag:ref|1897年の商務庁報告によれば、エッジウェア・ロード駅とキングス・クロス駅の間には平日1日に528本の旅客列車と14本の貨物列車が運転されており、ピーク時にはベーカー・ストリート駅とキングス・クロス駅の間に片道19本の列車が走っていて、760キログラムの石炭が燃やされ、7,500リットルの水が使用されて、水の半分は[[復水器]]で凝縮され残りは蒸発していた{{sfn|Jackson|1986|pp=119–120}}。|group="注"}}、電化することが解決手段であるとみなされるようになった{{sfn|Horne|2003|p=28}}。しかし、当時はまだ電気鉄道は創始期であり、インナー・サークルを共同で運行していたメトロポリタン鉄道との協定が必要であった。共同で所有した6両編成の試験旅客列車はアールズ・コート駅とハイ・ストリート・ケンジントン駅の区間を1900年の6か月間成功裏に運行した。そこで入札が行われ、1901年にメトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の合同委員会は[[ガンツ (企業)|ガンツ]]製[[架空電車線方式]][[三相交流]]のシステムを推奨した。当初はこの提案を両社が受け入れた{{sfn|Green|1987|p=24}}。
 
ディストリクト鉄道は1901年に、この改良工事への出資を、投資家でアメリカ人の{{仮リンク|[[チャールズ・ヤーキス|en|Charles Yerkes}}]]に仰ぐことになった。1901年7月15日にヤーキスはメトロポリタン・ディストリクト電気鉄道会社を設立して自身が社長に就任し{{sfn|Badsey-Ellis|2005|p=118}}、発電所の建設および新しい車両の購入を含めた電化の実行のために100万ポンドを集めた。ヤーキスは間もなくディストリクト鉄道の支配権を握り{{sfn|Horne|2006|p=37}}、彼のアメリカ合衆国での経験から、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道やセントラル・ロンドン鉄道で使われているのと似た、[[第三軌条方式]]の[[直流電化]]を望むようになった。[[商務庁 (イギリス)|商務庁]]による調停を経て、直流電化が採用されることになった{{sfn|Green|1987|p=25}}。
 
ディストリクト鉄道は、アールズ・コート駅からマンション・ハウス駅までの地下深くのチューブを建設する許可を得ており、また1898年にサウス・ケンジントン駅からピカデリー・サーカス駅までのチューブの許可を持っているブロンプトン・アンド・ピカデリー・サーカス鉄道を買収していた。こうした計画は、グレート・ノーザン・アンド・ストランド鉄道が持っていたストランド駅({{仮リンク|オールドウィッチ駅|en|Aldwych tube station}})から[[フィンズベリー・パーク駅]]までの建設許可と組み合わせられて、[[グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道]]となった{{sfn|Horne|2006|pp=38–40}}。ヤーキスはまた、[[パディントン駅]]から[[エレファント&キャッスル駅]]までのチューブを建設中であった[[ベイカー・ストリート・アンド・ウォータールー鉄道]]と、[[チャリング・クロス]]から[[ハムステッド]]や[[ハイゲート]]へのチューブを計画していた[[チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道]]を所有していた。1902年4月にヤーキスを会長とする[[ロンドン地下電気鉄道]]が発足し、これらの会社を傘下に収めて計画中の建設工事の管理を行うようになった。1902年6月8日にロンドン地下電気鉄道はトラクション・カンパニーを買収して、その株主に現金とロンドン地下電気鉄道の株式の形で精算を行った{{sfn|Badsey-Ellis|2005|p=118}}{{#tag:ref|ヤーキスのアメリカ合衆国における多くの事業と同様に、ロンドン地下電気鉄道の財務構造は非常に複雑で、将来の収入をあてにした斬新な財務手法を用いていた。輸送需要を過剰に見積もっていたため、多くの出資者は期待していた利回りを得られなかった{{sfn|Wolmar|2004|pp=170–172}}。|group="注"}}。