「グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道」の版間の差分

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=== 建設資金調達 1896年–1903年 ===
3つの鉄道会社の認可は下りたものの、建設資金となる[[金融資本|会社資本]]の調達は別の問題として残っていた。[[File:Yerkes002.jpg|thumb|left|upright| {{仮リンク|[[チャールズ・ヤーキス|en|Charles Yerkes}}]]率いる投資家集団が1901年にディストリクト鉄道、ブロンプトン・アンド・ピカデリーサーカス鉄道、グレート・ノーザン・アンド・ストランド鉄道を買収した]]
1899年には、1892年の議会審議で認可された[[ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道]](英語:Baker Street and Waterloo Railway、BS&WR)、[[ウォータールー&シティー線|ウォータールー・アンド・シティ鉄道]](英語:Waterloo and City Railway、W&CR)、[[ノーザン・シティ線|グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道]](英語:Great Northern and City Railway、GN&CR)及び1891年に認可を得た[[セントラル・ロンドン鉄道]](英語:Central London Railway、CLR)の5社が市場で資金を調達していた{{#tag:ref|セントラル・ロンドン鉄道1891年8月5日、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道は1892年6月28日、ウォータールー・アンド・シティ鉄道は1893年3月8日、 チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道1893年8月24日にそれぞれ女王裁可を得ている{{sfn|Badsey-Ellis|2005|pp=47, 57, 59, 60}}。|group=note}}。最初の大深度地下鉄であるシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道も路線延伸のための資金集めをこのころに行っていた{{sfn|Badsey-Ellis|2005|p=61}}ほか、未認可の多数の路線が同様に資金調達活動を行っていた。
ロンドンでの同様の投資機会を求め、1880年代から1890年代にかけて[[シカゴ]]の[[路面電車|路面鉄道]]網構築で財をなしたアメリカ人投資家、{{仮リンク|[[チャールズ・ヤーキス|en|Charles Yerkes}}]]率いる投資家集団がディストリクト鉄道、ブロンプトン・アンド・ピカデリーサーカス鉄道、グレート・ノーザン・アンド・ストランド鉄道の救済に[[1900年]]に乗り出した。ヤーキスとヤーキスの支援者たちは[[1901年]]3月にディストリクト鉄道株の大半を握り、1901年9月にはブロンプトン・アンド・ピカデリーサーカス鉄道、グレート・ノーザン・アンド・ストランド鉄道の経営権を握った{{#tag:ref|ヤーキスの投資家集団は[[1900年]]9月にまずチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道を、[[1902年]]3月には次いでベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道を買収している<ref name="UERL">[[#Reference-badsey|Badsey-Ellis 2005]], p. 118.</ref>。|group="note"}}。ヤーキスは買収した地下鉄各線の建設とディストリクト鉄道の[[鉄道の電化|電化]]の資金集めのため[[ロンドン地下電気鉄道]](英語:Underground Electric Railways Company of London、UERL)を設立、おもにイギリス国外の投資家から[[時価総額|株式公開時に]]{{Format price|5000000}}ポンドの資金を集めた{{#tag:ref|ヤーキスはロンドン地下電気鉄道の会長に就任し、ロンドンのスパイヤー・ブラザース銀行、[[ニューヨーク]]の投資会社スパイヤー、[[ボストン]]のオールド・コロニー・トラストが出資に応じた<ref name="UERL"/>。|group=note}}。ロンドン地下電気鉄道傘下各社の地下鉄路線建設工事の進捗に従って株は追加で販売され、1903年までに総額{{Format price|18000000}}ポンド(2014年の{{Format price|{{Inflation|UK|18000000|1903|2014}}}}ポンドに相当){{Inflation-fn|UK}}に達した{{#tag:ref|アメリカでヤーキスが資金集めに用いた手法と同様、ロンドン地下電気鉄道の資金構造は高度に複雑で、将来の収入を見込んだ複雑な金融技術が用いられた。ここでは過分に楽観的な乗客数の予想が用いられ、出資者の多くは期待した利益を得られずに終わることになる{{sfn|Wolmar|2005|pp=170–172}}。|group=note}}。
 
===路線計画 1898年 - 1905年===