「ハッソー・フォン・エッツドルフ」の版間の差分

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1938年2月から、エッツドルフはフォン・ハッセルや {{仮リンク|エドゥワルド・ワグナー (軍人)|label=エドゥワルド・ワグナー|de|Eduard Wagner (General)}}といった反[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の有力高官と密接に連絡を取っていたが、反フランス侵攻キャンペーンの後にエッツドルフはそうした任務をやめた。1944年7月20日の政府転覆計画([[7月20日事件]])には準備に積極的に関与していなかった。しかし、エッツドルフは[[ヴォルフスシャンツェ]]本部でエドゥワルド・ワグナー将軍の指示により暗殺未遂が起きた際、1944年7月19日に友人で同僚の{{仮リンク|ヴェルナー・フォン・シュミーデン|de|Werner von Schmieden}}に、24時間以内に事件が起きると告げた<ref>Werner von Schmieden: ''Im Hauptquartier, am Rande des Attentats'', 20. Juli 1944 – Aufzeichnungen.</ref>。暗殺計画の失敗をシュミーデンはエッツドルフに伝えた。
 
1945年2月、エッツドルフは[[ジェノヴァ]]総領事に任命され、ヒトラーからの港湾施設や工業施設を破壊する命令を実行可能な立場だったが、{{仮リンク|ギュンター・マインホルト|de|Günther Meinhold}}は破壊工作を拒絶した。終戦から1947年8月までエッツドルフは抑留された。彼の[[非ナチ化]]については具体的に知られていない。1950年からエッツドルフは[[西ドイツ|ドイツ連邦共和国]]外務省に勤務した<ref name="kuzumi"/>。1956年から1958年まで[[カナダ]]、1961年から1965年まで[[イギリス]]大使を務めた<ref name="kuzumi"/>。
 
== その他 ==