「斐太神社」の版間の差分

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== 歴史 ==
[[File:Hida Site, Yashiroyama-B, gaikan.jpg|thumb|250px|right|{{center|斐太遺跡(国の史跡)}}]]
上記のように現在の当神社は斐太神(大国主命)に矢代明神、諏訪大明神が[[合祀]]されたものであるが、その中で斐太神社(式内社)は当初は山上に鎮座していたと伝えられ、矢代川の支流である[[内川 (新潟県)|内川]]の右岸、妙高市飛田字屋敷添には[[里宮]]があって拝殿が建っていたという。旧社地は神社西方の[[鮫ヶ尾城跡]]北方にある宮沢という地がそれではないかとみられるが<ref name="式社調査">『式内社調査報告』。</ref>、現社地への遷座の時期・事情は不明。もと「楲田(ひだ)明神」と称し、[[延喜|延喜年間]](10世紀初頭)に「斐太明神」に改めたとの説もある<ref>『新潟県の地名』。</ref>。現鎮座地の西方と北方にそれぞれ斐太遺跡を構成する、建物跡とみられる上ノ平と百両山の竪穴群があり、百両山竪穴群の更に北方に観音平古墳群が、鎮座地南方には矢代山竪穴群(同じく斐太遺跡に含まれる)と天神堂古墳群が広がり、なかんずく観音平、天神堂の両古墳群を営んだ勢力が奉斎したのが斐太神社であった可能性も指摘されるが<ref name="式社調査"/>、社伝によれば大国主命が[[御子神]]である事代主命と建御名方命を従えて当地方へ神幸し、当地に滞在して住民に稲作の業を教える等の国土経営にあたった故事に因んで創祀されたといい、その折に当地を[[越国]]の「日高見(ひだかみ)の国」と名付けたことから「斐太」という地名が生まれ<ref>かつては現妙高市の宮内、雪森、飛田と上越市稲荷を総称として「斐太」と称し、また飛田内に「高見」という地名もある(『式内社調査報告』)。</ref>、また、国土経営に際しては大国主命と建御名方命は山野の開拓や田畠の開墾にあたり、事代主命(矢代明神)は沼沢や河川を治めて水路を開削したと伝える。