「甲賀流」の版間の差分

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室町時代後期、[[観音寺城]]に本拠を構える近江佐々木六角氏が着々と力を蓄え、[[室町幕府]]の命令を軽視あるいは無視し始めたことから、[[長享]]元年([[1487年]])に[[征夷大将軍|将軍]][[足利義尚]]がこれを征討するために軍を発し、六角勢との間に戦いが行われた([[長享・延徳の乱|鈎の陣]])。義尚が諸国の[[大名]]を動員して六角氏の本拠観音寺城に迫ると、[[六角高頼]]は幕府軍との直接対決を避けて[[甲賀城]]に移動した。そこで義尚は本陣を[[栗太郡]]に位置する鈎の安養寺へ移し、甲賀城を攻めてこれを落城させるのだが、脱出した六角高頼は配下の甲賀武士達に命じ、山中で[[ゲリラ|ゲリラ戦]]を展開して頑強に抵抗した。「亀六ノ法」という、高頼の考え出した戦法がある。敵が攻めてきたら、[[亀]]のごとく甲賀山中に隠れ、敵が長陣に疲れ果てるのを待って、亀が手足を出すがごとく突然現れて攻撃するものである<ref>『[[歴史群像]]シリーズ71・忍者と忍術闇に潜んだ異能者の虚と実』([[学研]]、2003年)130頁「六角と甲賀」参照</ref>。その他、甲賀武士達は山中でその地の利を生かして様々な[[奇襲]]をかけ、また時には夜陰に乗じて義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、幕府軍を散々苦しめたという<ref>[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])作成の『甲賀古士之事』(藤田(2012)pP.45-46)。</ref>。そのためなかなか決着はつかず、長享3年([[1489年]])には義尚が陣中に没したため、足かけ3年にわたった戦いは終結、六角氏は生き残った。そして、この戦いに参加した五十三家の地侍達を「[[甲賀五十三家]]」と呼び、さらに五十三家の中で六角氏より[[感状]]を貰い重きを置かれた家を「[[甲賀二十一家]]」と称される。
 
以後、甲賀の侍衆は六角氏と行動を共にした。[[六角義賢]]が[[観音寺城の戦い]]で織田信長に敗れると、甲賀へ逃れて信長と戦うことになったが、[[野洲河原の戦い]]で甲賀の侍衆が加わった六角軍は信長に敗退した。その後も戦は続くが、やがて六角氏が没落すると甲賀は織田信長の支配下に入ることになる<ref>藤田(2012)pp.24-25。</ref>。信長の家臣の[[滝川一益]]は、甲賀出身という説もある。[[本能寺の変]]の際は、信長とともに討たれた[[森成利|森蘭丸]]の弟である[[森忠政]]とその母・[[妙向尼]]を甲賀の侍衆の[[伴惟安]]が甲賀の自領で匿った。後に伴氏は森忠政の家臣となる。本能寺の変を知り、本国[[三河]]へ帰還した[[徳川家康]]の[[伊賀越え]]では、[[山口光広]]が家康に同行していた信長の家臣の[[長谷川秀一]]の求めに応じ、実兄の[[多羅尾光雅]]とともに甲賀の侍衆などを率いて家康一行の道中を警固した。「伊賀越え」の具体的な経路は諸説あり、甲賀を通過した距離が長いと推測する研究者もいる。三重大学教授の[[藤田達生]]は「伊賀越えというよりも、甲賀越えだった」との見解を示している<ref name="朝日20191026">[https://www.asahi.com/articles/DA3S14509491.html 【みちものがたり】家康の「伊賀越え」(滋賀県、三重県)本当は「甲賀越え」だった?忍者の末裔が唱える新説][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2020年6月13日(6-7面)2020年6月20日閲覧</ref>。
 
===伊賀との関係===