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=== 修学 ===
日蓮は12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の当時は天台宗寺院であった[[清澄寺 (鴨川市)|清澄寺]]に登った<ref group="注釈">本尊問答抄「生年十二、同じき郷の内、清澄寺と申す山にまかり登り住しき」</ref>。師匠となったのは道善房であり、先輩である浄顕房・義浄房から学問の手ほどきを受けた<ref group="注釈">報恩抄「各々二人は日蓮が幼少の師匠にておわします」</ref>。幼名は善日麿<ref>「産湯相承事」</ref>、あるいは薬王麿<ref>日朝『元祖化導記』1478年</ref>と伝えられる。
 
清澄寺に登る前から学問を志していた日蓮は、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」という「願」を立てた<ref group="注釈">破良観御書「幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給え。十二のとしよりこの願を立つ」</ref>。少年時代の日蓮は、自身の誕生の前年に起きた承久の乱で真言密教の祈禱を用いた朝廷方が鎌倉幕府方に敗れたのはなぜか、との問題意識をもっていた<ref>「神国王御書」</ref>。また、仏教の内部になぜ多くの宗派が分立し、争っているのか、との疑問もあった<ref>「報恩抄」</ref>。清澄寺にはこれらの疑問に答えを示せる学匠がいなかったので、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せず<ref group="注釈">報恩抄「我、八宗十宗に随わじ」</ref>、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた。