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東晋に仕え、衛将軍[[謝安]]の参軍に任じられていた。
 
[[381年]]11月、前秦の荊州[[刺史]]都貴・司馬閻振・中兵参軍呉仲が2万の兵を率いて[[竟陵郡|竟陵]]へ侵攻した。[[車騎将軍]][[桓沖]]は桓石民・[[南平郡]]太守[[桓石虔]]・竟陵郡太守[[郭銓]]らに水陸2万の兵を率いて迎撃させた。
 
[[383年]]5月、竟陵郡太守趙統が[[襄陽郡 (中国)|襄陽]]攻略に向かった。振威将軍に任じられていた桓石民は援軍として後続となった。
 
6月、桓石民・前将軍劉波・冠軍将軍桓石虔らとともに築陽を攻略した。武当を攻めて、前秦の[[エン州|兗州]]刺史張崇を破った。
 
7月、[[随郡]]太守夏侯澄とともに前秦の冠軍将軍[[慕容垂]]・姜成らを漳水で破った。桓沖の上疏により、振武将軍・都督荊江豫三州之十郡諸軍事・[[襄城郡]]太守に任じられ、[[夏口]]を守った。
 
11月、夏侯澄とともに、漳口で前秦の平南将軍[[慕容イ|慕容暐]]・姜成等を破り、姜成を討ち取った。
 
[[384年]]2月、桓沖が亡くなり、詔により譙国内史・[[梁郡]]太守に任じられていた桓石民は、荊州刺史に任じられた。
 
7月、魯陽に拠り、[[河南郡]]太守高茂を遣わして洛陽の北を守らせた。
 
[[386年]]6月、将軍晏謙を遣わして[[弘農郡|弘農]]を攻略した<ref>『十六国春秋』巻38 苻堅下では、383年11月と記されている。</ref>。
 
10月、前秦皇帝[[苻丕]]が洛陽侵攻を目論んでいた。桓石民は揚威将軍[[馮該]]を遣わして迎撃させた。苻丕・左僕射王孚・吏部尚書苟操<ref>『十六国春秋』巻39 苻丕では、王孚・苟操は捕らえられたと記されている。</ref>らを討ち取り、皇太子苻寧・長楽王苻寿を捕らえ、首級とともに[[建康 (都城)|建康]]へ送った。
 
[[丁零]]族の族長[[テキ遼|翟遼]]が山陵へ侵攻した。桓石民は河南郡太守馮遵を遣わして撃退した。
 
乞活の黄淮は[[并州]]刺史を自称、数千の兵を集め、翟遼とともに長社を攻めた。桓石民は南平郡太守郭銓・松滋郡太守王遐之を遣わして黄淮を撃ち、黄淮を討ち取り、翟遼は河北に逃走した。
 
それまでの功により、左将軍に任じられた。
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== 人物・逸話 ==
* 若い頃から、才覚の高さで名を知られていた<ref>『晋書』巻74 桓石民</ref>。
* 桓氏は長年荊州刺史の地位にあり、桓石民は才望を兼ね備えていたため、荊州の人々は彼を仰ぐように尊崇した<ref>『晋書』巻74 桓石民</ref>。
 
== 家系 ==