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諡号を受けた経緯
 
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'''覚盛'''(かくじょう、[[建久]]5年([[1194年]]) - [[建長]]元年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]([[1249年]][[7月1日]]))は、[[鎌倉時代]]中期の[[律宗]]の[[僧]]。[[大和国]]の出身。号は学律房・窮情房。[[諡号]]は'''大悲菩薩'''(だいひぼさつ)。[[唐招提寺]]中興の祖
 
== 略歴 ==
[[興福寺]]で[[出家]]し、常喜院に住して[[戒律]]を学んだ。[[嘉禎]]2年([[1236年]])、[[叡尊]]・[[円晴]](えんせい)・[[有厳]](うごん)らとともに[[東大寺]]で自誓受戒して[[戒律]]を復興した。[[四条天皇]]をはじめ[[皇族]]や[[公卿]]に菩薩戒を授けた。[[寛元]]2年([[1244年]])、[[唐招提寺]]に入寺して律学の復興に尽力し、'''戒律復興の祖'''とも'''[[鑑真]]の再来'''などとも称された。[[建長]]元年([[1249年]])、唐招提寺にて56歳で入滅。弟子に[[良遍 (律宗)|良遍]]・[[証玄]]・[[円照 (鎌倉時代)|円照]]などがいる。
 
[[元徳]]2年([[1330年]])[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]には、[[後醍醐天皇]]から「大悲菩薩」の諡号を贈られた(『僧官補任』){{sfn|内田|2006|pp=135–136}}。なお、[[仏教美術]]研究者の[[内田啓一]]は、この諡号は後醍醐の腹心で[[真言律宗]]出身の[[真言宗]]の僧である[[文観|文観房弘真]]からの推挙によるものではないか、と推測している{{sfn|内田|2006|pp=135–136}}。この前々年と前年には、[[真言律宗]]の[[忍性]]と[[信空 (真言律宗)|信空]]がそれぞれ諡号を贈られており、さらに当時の唐招提寺中興9世長老である覚恵は、文観から付法を受けた(真言宗上の弟子となった)こともあるからである{{sfn|内田|2006|pp=135–136}}。
 
覚盛の命日・[[5月19日]]には毎年、唐招提寺で「中興忌梵網会」という法要が開かれ、その遺徳を偲んで舎利殿から[[うちわ]]が撒かれる。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation | 和書
| last=内田
| first=啓一
| author-link=内田啓一
| title=文観房弘真と美術
| publisher=[[法藏館]]
| date=2006
| isbn=978-4831876393
}}
 
{{Buddhism-stub}}